新年 2011  2001年が始まった1963年からの大学教育従事を新設大学の大学理念(大学校、専修学校的大学)に賛同できずに、迎えることになったが、心身的に衰退することがないので、更に真の大学を目指す大学を求め続け様と思う。
久しぶりに明治神宮に家内と宵参りをした。雑念を清めるためであり、再出発を祈念するためでもある。併せて開設する「文乃蔵心理・教育研究所」の成功を祈るためである。この研究所は教育、社会の改革を志向する。
チワワが我が家に  生後3カ月未満のオスのチワワを、逝去した義父の誕生日、1月1日に予約し、3回のワクチン接種後の1月14日に我が家に来た。先住の4歳になる日本猫と同居することになる。 
教授力   先に翻訳でFull Professorshipの訳出に苦労したことがある。助手として採用され、講師、助教授と昇格し教授になることである。現在の日本の大学では、全くこのプロセスが無視されている。初等、中等教育従事者をすぐに教授として採用することである。また非常勤講師をその道程に従わず任命することである。これらの者は、大学教育の本質を知ることがなく、従来の経験を追随するだけである。
最終講義  1月17日に最終講義をした。勿論公ではなく、青年の心理学の受講生、2年生81名に対してである。最後には、放送大学のVTRを使用した。私の実態を分かってもらった。巷には、テレビでお馴染のを枕詞にしている者もいるが、プログラムを持っていたのは大学で1人のみであることの驚いていた。教育への情熱は強く、本当の大学の場で再度活躍することを祈念している。
経営学の巨人ドラッカーの講義の書を読み感動している。教育についての関心の共通することが多く、更に進めていきたいと思っている。計画している「文の蔵 心理・教育研究所」は、ドラッカーやPositive Psychology,Humanisitiv Psychologyの考えに基づいている。詳しくは、PEで。
研究室撤収 3月16日  2011年3月16日に東京未来大学の研究室を撤収した。一時教育生活を休止しただけである。不条理な者により教育生活休止を余儀なくされた。休暇中は大学院進学希望者の英文購読の指導に邁進した。後1年何らかの形で指導を続けなくてはならない。客員・特任教授の制度があるが、その制度を適用されると思っていたが(3年生のゼミ生配当で)、それは大学運営に貢献した者のみ、しかも指名された、に与えられるものであることを知り愕然とした。Hは、1年先輩であり、日頃辞めるとの口癖であり、チャッカリその指名を受けた時に発したことは、教育を続けたいではなく(お金がほしい)!運営委員会でそれらを検討した時には、関係者に配慮なく、決定してしまった。学長もまた、職能と称号の差異的認識ができないのは、残念であった。優れた者を集める、学生を指導するのではなく、劣り、イエスマンを採用し、適当に学生、父兄、社会をあしらい、利を貪る者の集団を作っていくのを援助している(事実学生教育への授業料還元は、私学で低位レベル)。本当の大学を創造するには、残された人生でやるべきことと比してエネルギーを使いすぎるので、新しい活動の場を求める方が良い。
大学での4年間の経験は、多くの問題を見させてもらった。全ては研究の対象者、自ら私の智の研究の被験者になったもらえたことを感謝している。
文乃蔵心理・教育研究所FIPE)を構想し、参加、賛助者募集を開始する。
11日にはM9の東北関東地震が発生し、津波と原発事故で騒然としている。当日は院希望者の購読指導で、県費を返上して大学にいた。4時に帰途についたが、運休のため、北千住から三ノ輪、三ノ輪で復旧した都電で王子へ、徒歩で赤羽へ、復旧したメトロで、東川口へ、9キロ離れた東川口から深夜方向を間違いながら徒歩で帰宅。1時ハンに帰宅。停電で、階段登りは辛かった。後に計算したら、16キロを歩いたことになった。迷走しながらもたどり着けた。
 
一時休息
-大学教育活動-
           
3/31 
3月31日を以って東京未来大学を退職した。大変に問題の多い大学であった。いわゆる管理職的な教員には大学教育についての知識が貧弱であり、専門学校運営の経験のある事務職の意向に沿って大学を構築していったのが不幸であった。そのために初代学長、初代学部長の辞職、創設時の5名の教員の辞任が生じた(新設校では、4年間は辞職は承認されないが)。文科省監視下にある4年間で、昇格人事が行われた(それらの業績、職責の報告が無く)。4年時前には、業績についての報告が無く、理事長告示という形式で昇格を発表する始末。客員教授を称号と考える教員、19年間の助手から準教採用され、副専攻長として奉仕し、教授昇格でその職を辞めていく教員、科内で仲が悪いと言って昇格させない、採用を推進した者に藩閥して昇格させないなど、とても教育・研究で競い合う大学とは程遠い場であった。それらを推進した者は、大学教授暦が、10年以内であり、大学の理想を熟慮できなかった。最低な学生と教授会で言う自称教育者は、真に教育者と言えるのであろうか。自然淘汰される運命にある。しかし私としてはその間に遭遇した学生には実り多き将来のために援助を惜しまない。腐ったリンゴの逸話のある地で、現実となった。

文乃蔵心理・教育研究所(FIPE
)
 文乃蔵心理・教育研究所Fuminokura Institute of Psycho-Education FIPE)は、全ての人間には潜在的能力が備わっている。身体的・遺伝的な制限を受けようとも、全ての人間に潜在能力が備わっている。それがか開化されないのは、開化を支援する者の認識、評価の誤りにより方略が間違っているためである。この子は、この人は、駄目、知能が低い、病弱であると、全体的、総括的な判断をしてしまっているからである。人はだれでも興味、関心のあり、できることとできないこともある。興味、関心のあることやできることに注目し、それを伸ばして行くことが肝要である。しかしそれでは十分ではなく、興味、関心やできることをBaseにして、関心のないこと、興味のないこと、出来ないことへと汎化するように支援指導する必要がある。心理学での汎化原理を適用することにより、潜在能力の開花が可能になる。それは、人間のあらゆる発達段階でなされることが必要である。その開発プログラムと実践が研究所の使命になる。
 ドラッカーと教育  ドラッカーのマネジメントについて興味をもった。未来大学での体験が火をつけた。FIPEを構想している時に出会ったのである。「もしドラ」でなく、ドラッカーの講義録2巻を読んでからである。新設大学構想でのリーダーとしての学長、学部長の行動が大学づくりとはかけ離れていることに失望した。大学校づくりであり、創造していたものとは余りにもかかけ離れている。それらは、学生、父兄そして高校の担当教諭への背任である。学生には将来を与えず、劣等感をさらに植え付ける、習得した絶望感の増幅、父兄には、高額な教育投資、後輩に進学先を言えない後ろめたさ。ドラッカーは組織の社会性、氏名を明言している。一教員として学生の学力増強に貢献したが、それらは無視された。ドラッカーを教科指導に適用する構想である。「もしドラッカーが1年の担任なら」から「もしドラッカーが大学のゼミ指導教員なら」まで、幼児教育ならば「もしドラッカーが祖父であるなら」もいいであろう。線路は続くどこまでもという心境。ドラッカーの訳に意訳、誤訳があるので、原著に当たり慎重を期さなくてはならない。日本道徳性心理学研究(JAMP)25−1に発表し、26回研究会にも発表した。
 学会研究会 7月24日から3日間札幌での教育心理学会総会に参加した。総会ではJAMP恒例の自主ゼミを開催する予定であったが、プログラム作成の遅れ(3日前に受領)で、事前に予定していた飛行機ー宿泊パックをキャンセルしなくてはならなかった(キャンセル料18000円)。プログラムでの行事配置が全くの素人であった。JAMPで前日使用しているので内情は分かっている。9時から―9時の一日使用料であるために、ナイトセッション称して、9時まで開催している。他の時間には非使用の会議室があった。自主シンポは初期には無料、むしろお土産がついたが、今では20000円別途に徴収している。
総会前開催のJAMPには、発表者以外の参加者しかいなく、閑散としていたが、論議は白熱していた。発表予定者にも、連絡なく欠席者がいた。25人いる世話人も、参加意向調査にも応じない者がいた。道徳以前の問題であり、それらに道徳を論じる資格があるのであろうか疑問である。会場・器具使用料35000円、研究誌印刷代60000円、回収12000円、いい投資である。成果が何時か上がることを期待するのみである。
 
  2012 
 親友の死  小学校以来の友人の訃報に接した。12月3日に癌で亡くなった。彼とは小学校2年時以来の友達である。当時は母子家庭、祖母が同居、であり、母は紡績会社で給食を担当していた。私は小学校で転校したのであるが、休みにはよく泊まりに行っていた(他の事情もあったが)。高卒後に名古屋で働き、その後豊川に帰って、母親と共に給食会社を設立し、大変盛業であり、努力家であった。40歳時から再開している同窓会出席(最初は3年おき、物故者が増えてきたために、健康の内に会おうということで最近では2年おき)時に泊まらせてもらうこともあった。体の異常については、彼自身は話さなかったが、17年前から異常に気付いていたとのことである。来年2月の同窓会での再会を期待していたが大変残念である。唯冥福を祈るのみである。
各学校時代に、特に親しくしていた友達がいる。小学校時代の彼である。高校時代の親友も同窓会開催時前に亡くなっている。中学校時代の友は元気であるようであるが、余り連絡がなく心配である。
 同窓会 2月 小学校同窓会が2月に実施された。40代から再開し、3年ごとに開催されていた同窓会も、恩師や同窓の死で、間隔を2年に縮めたが、逝去や本人や同伴者の病気、介護で出席者が少なくなった。次回は、2年度である。その間の交流としてEmailによる交流を提案して、賛同され、参加者も増えてきた。来季の世話人のY氏も参加した。半世紀前にこのような手段があったら、もっと違った展開になっていたであろうが、これの時代の戯れである。
 台湾 義嘉 6月  台湾 中正大学で開催の第7回APNME(AsiaPacific Network of Moral Education)のために台湾南部の義嘉に行った。発表申込みで、色々と不条理なクレームをつけてきたので、発表を中止した。テーマは、「朱子学と王陽明学」での道徳性観の差異についての検討であったが、準備委員会の連中には難解であったようで、それらを説得するのに時間を取りたくなかったので、中止した。APNMEは、地区の道徳教育についてのSIGのようなものであったが、前回南京大学でAMEとジョイントしたことにより、大きくなったが、内容は貧弱であった。アジアでの中国古典思想の影響について批判的に論じる必要があるが、その必要性を感じられない準備委員会に嫌気がさした。宿泊も事前になって相部屋を要求してきたので、インタネットで安く(一泊7,500円が2500円)で泊まれるところを予約した。大学までは、郊外にあるために、タクシーで300元であった。公共機関使用では元ほどで行けた。今回のAPNMEのMissionの喪失で、もう参加をやめようと思う。彼らを指導するには時間とエネルギーがいる。宿の新高の隣に大きな書店があり、新刊の王陽明の書があり、早速購入し、JAMPへ掲載しようと思う。台湾は、オランダ、中国、日本の占領で大変複雑な国である。義嘉は日本占領時に設置された都市である。中央部はロータリーで、ヨーロッパ様式の交通網であったし、都市も区画整理がなされていた。
ボランテア活動 9月  昨年末から川口夜間中学で週2回ボランテア活動をしている。参加者は殆どが外国の子女(中国、韓国、フィリッピン、タイ、ベトナム、ベンガルんど)であり、それらの者については日本語、ひらがな、カタカナと漢字を教えている。外国の大学への進学希望者には英語を、日本の大学院進学希望者には専門教科を教えている。日本の大学院在籍者には論文作成を教えている。知的遅滞者の者には民間の塾の教材を使って教科指導(国語と数学)をしている。9月からは、さらに近くのフリースクールを週1回支援する。ボランテアのスタッフには、教え方や学習指導法についての知識に欠けるものも多いのは残念である。幸い名古屋工業大学で職業指導(今流にはキャリア―教育であるが、その歴史、理念をキャリア―教育では継承されていない)での知識、新潟大学時には学習心理学、教育心理学を担当したのでその知識が役に立つし、付属小学校と養護学校での研究授業全科に参加したので役に立っている。再度の大学教育をも考えているが、私の理念を理解できるものがいないのは残念である。ボランテア活動の充実も学の形成に役に立っているのも事実である。
 Jazz Live in Minamiurawa
9月
南浦和にあるCafe Vineで月例のジャズライブに参加した。Kenji氏の主催するライブである。そこのブラジルの産婦人科医でSinger WriternoRobertoが参加し、ボソノバを披露した。FaceBookでKenjiの曲に歌詞を付けて、演奏した。ブラジルといえば、8月末に甥がブラジルのトヨタ工場に赴任したばかりである(彼の紹介で燃費のいいアリヲを注文したばかりである)。南浦和で、このような素晴らしい出会いがあるとは思わなかった。YouTubeでRobertoを検索している時に、ふと昔のことが過りしいのみ学園について検索すると、園長の晨地先生のファイルが出てきた。亡父と同年で106歳であるが(大学は異なっている。父は東京教育大、晨地先生は広島大)、未だに活躍されている。早速Facebookに負けないようにとコメントして紹介した。その晩に、恩師の依田先生が出てき、私が勉強が進まないのを気遣い、勤務校に来るようにと言われ、日時調整する夢を見た。先生は、週3回ということで、火、水、木が可能であったので日時を決めるように言われたが、火曜は川口のボランテアで、水曜は9月から開始したフリ−スクールで行けないので、木曜日にし、時間も目白には南浦和から時間がかかるので17時からと決め、そこで目覚めた。夢が今の自分をさらに進むようにと促しているようであり、慢心することなく進むべきであると、啓示している。Facebookに書いたように頑張ろう!
 研究会 12月  2012年度の1985年に設立、主催している日本道徳性心理学研究会を12月9日に開催した。例年日本教育心理学会総会前後に開催していたが、教育心理学会に参加しないので、25名いる世話人に主催を依頼したが、誰も挙手しなかったので、文京大の世話人栗加氏に依頼して、ようやく年内に開催することができた。発表者は、4名であり、1名は急病のために辞退し、結局は戸田、遣水氏と私だけであり、参加者も弘前の小林氏、会場校の栗加氏とその学生であった。出席を保留していた者は、結局欠席であった。研究会は、自主的にかつ積極的な活動を参加者に求めているが、内的な動機付けが弱い。研究は、外的な動機でなされるものではなくい。それは、道徳教育の実践でも当てはまるものであるが・・・。160名ほどの会員での、出欠の返事は、12名程度である、中には考慮中飲みで、その後の連絡のない者もいた。道徳性は、基本的社会的生活習慣もその基礎にあるのだが。会場で11月に開催されたAMEで、I氏がクーマーカー賞を受賞したことを聞いて驚いた。I氏とは、87年からAMEに参加しているが、発表は少なく、発表しても、日本国内での学会、研究会での英語での発表とか所属している集団の原理を述べるだけであった。クーマーカー賞が学術的なものであると思っていたが、Socialなものであることが露呈した。11年に所属集団で外国から招聘し、研究会?を開いたが、そのの集団には批判的な者への呼びかけもなかった。招聘された外国の研究者は、AMEの会場で、その集団について、私に聞いてきたが、情報は与えたが、結局は彼の判断によることを助言しただけであった。外国で第2回の学会を準備した大学では、その集団に何色を示し、結局は成り立たなかった経験もある。賞はAcademicではなくSocialなものであると考えると合点がいく。勿論本人からは何らの連絡もないが、祝意を表した。
 車替え 12月13日  13日に新車を購入する。トヨタのアクアである。燃費がいいことが魅力であり、申し込みから3ヶ月待たされた。自動車歴は、日産のチェリー(義兄からの売買)、サニー、ワーゲンのビートル、ゴルフ、イギリスのミニ、フランスルノーののエクプレス、アメリカのトーラス、トヨタのイプサム、オーパ、ホンダのフィットと乗り継いできた。ビートルは、当時ビートルに何台合うかについて子どもに関心があったようで、赤いビートルは不幸であったが、幸い白であった。ゴルフ、エクスプレスは、軽油で、燃費が良かった(その後軽油の使用禁止)。エクスプレスは、パリの花屋さんの配達に使われていたようで、日本では自動車関係の雑誌では、わずかに12台しか登録されていなかった。フィットは、デザインが良く、よく売れていた。外国でフィットを見て、写真を撮るほど、地区に溶け込んでいたので、宣伝コピーを提案したが、無駄であった。最近では、この度購入したアクア(最近の月の登録台数、アクア対フィット、2万対1万)にこされている。それぞれに歴史と経験があった。幸い事故なく(違反は2回ー時間帯進入禁止・指示が見えにくいとことにあった)、自動車歴を満悦しよう
2014 
 新年 1月 大晦日恒例の氷川雉の宮に参拝。31日夕刻に堺の広瀬憲文の様態悪化の報が入る。お雑煮を頂いた後、福袋を浦和に買いに行き、帰路徒歩で戻る。11時に憲文逝去の報が入る。2日の夜の通夜に間に合うように。インターネットで道順とホテルの検索をする。堺には、交通機関で言ったことがないので、11時には自宅を出て、新幹線で大阪、難波から中百舌鳥、中百舌鳥から新高速鉄道で通夜会場に、6時に着いた。家族葬ということで、広瀬の兄親族と恭子の新族、私だけの参会者であった。私の姉妹は参加しなかった。堺東の東横インで宿泊。葬儀は3日2時30分であるので、駅前の高島屋で買い物をした。葬儀かラ、納骨、初七日忌で9時になった。東急インに連泊し、近くの仁徳天皇御陵に行った。幸いに温暖な日であった。壮大な御陵には圧倒された。その必要があるのか疑問を持った。大阪に戻り帰路につこうとしたが、木津の叔父のことが気になり、堺東から難波、難波から奈良、奈良から木津で木津に行くことにした。奈良から電話をして在宅を確かめた。その直前に娘の家族が家に帰っていた。幸いにも、91歳の高齢であるが、元気であった。2時間ぐらいお邪魔して、JRで祝園、近鉄祝園から八木、八木から名古屋へとたどり9時頃着いた。翌日の指定は、終日満席で早朝のみであった。予約して、駅付近のホテルをあたったが、満室。11時頃には寒くなったので、最後の頼み、24Hのインターネットカフェへ。8時間制であり、出発時間内であった。DVDを見て仮眠した。6時41分始発ののぞみで帰路に着いた(8時24分着)。全く慌ただしい年始であった。
新年に多くの卒業生からの賀状をもらった。既に退職している者、今年度で退職する者、祖父母なになった者、子息の婚姻、就職、大学進学の喜ばしい報である。喪中もあった、同伴者の若死、祖父の死亡などである。卒業生との永年に渡り交流できることは、教育に賭した者の至福事である。
 同窓会 2月 小学校の同窓会が豊橋であった。40歳半ばから再開した同窓会、同期会は、当初は3年おきであったが最近では2年おきである。30名であった。恩師は、3名のうち2名が他界、存命の恩師は、同伴者の介護で欠席された。2年後の次回で同窓会は終了したいて準備委員から提案があったが、参加者の多くは反対であった。次回は、豊川近郊でなく、豊川以外での開催の要望に対して、関東地区で開催しようと、関東地区在の同窓生に呼びかけた。その際には、宴会宿泊費以外に交通費がかさむことであるので、準備、貯金を奨励しておいた。果たして何人になるだろう。喜寿の年である。
 
ボランティア活動随想 
4月 
ボランテア活動を初めて2年になる。昨年度指導した中国の学生が研究生として医学研究科(生化学専攻)に進学し、外国の高校受験生が志望した高校に合格、不登校の中学生と小学生は、希望、または近い学校にそれぞれ進学できた。今年は、小学校教育が、家庭の事情で剥奪された(また地区の教育委員会の介入もなく、自動的に義務教育剥奪された)成人男子の定職への準備教育を完成させることである。
ボランティアは、教育的活動にも関わらず学校の教科についての知識がない者の参加は、参加する者にとって不幸である。日本ご教育で、外国語、特に韓国語や中国語に精通していても、日本語の知識、構造についての知識にかける者がいるのも不幸である。国語の語順を、あかさたな・・・で教える者、教科書にルビを符って,教えたという者、学習のメカニズムや教授法について無知な者、教科名について無知な者、学習遅滞、情緒障害への指導法について無知な者、これらの者は、参加する学生諸君の発達の促進、援助とは言えない。やはり、教科構造、学習=教授過程についての知識を事前に備えるべきであろう。恩師依田新教授の言うように、学生諸君の、興味だけによる学習だけでは、教育とは言えないのである。教育を唱っている活動であることを、参加のボランテアが気づくのにはまだまだ時間がかかりそうだ。私のこの活動への参加は、教職課程または専門過程で教えられた教育心理学的知見の実行の実態を探ることにもある。
 New JAMP 4月 1985年設立した日本道徳性心理学研究会(JAMP)は、今年で30年になる。10年ごとの世話人を交代するために、登録した世話人、会員に一斉メールで世話人の自薦・他薦を求めたが、世話人25名[内期間内に死亡者2名]の応答者は少数で、「求められた返事には、答えようー内容の諾否にかかわらず」を再確認しなくてはならない状況であった(またメールも届かない)。東大、慶応、他卒の6名で新しい世話人で進めることにした。
 AME 11月  11月にパサドナ、CAで開催されたAMEに3年ぶり参加した。道徳性発達をAlportのBecomingの観点から考察した。来年はブラジル・サントスで開催される。Freireの理論から日本の道徳教育を考察することにする。
 2015 
 4月近況  2015年を迎えてもう4月になった。定職を離れた既に4年となったが、この間にボランテア活動で私なりの成果を上げることができた。川口自主中学では週2回で、各回には異なったものの指導をしている。中国人のバイオケミストリーでの院志望者の日本後、論文助言である。横浜市立大学医学研究科に進学させることができた。他は小、中学校に家庭の事情で通学できなかった青年に国語を教えることであり、今春から授産所勤務から一般企業への就職をさせることができた。FSでは校長の前職が塾講師であることから問題集を与えた,解き、自分で回答をチェックする指導法である。教育、学習の基礎理解ができていないのには戸惑いを感じている。今は、元教室の生徒の子どもにアメリカの大学への準備、元FS生で中途でやめた子どもへの高校生活の支援をしている(3年後には東都以上の大学進学に向けて)。
   
徒然

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我が人生を振りて 遍歴

徒然ままに、身近に起きたことについて考えことを書くことにする。