遍歴


何時まで続く生であるかは不定(神のみが知る)であるが、人生を振り返ってみる。
父母は既に1997年、同じ年に逝ったが、残された子ども、姉妹(2人の兄と一人の弟は、不幸にして死産であった)は健在であり、其々の伴侶も健在である(2014年早々に義弟が死去。

 時期 記 
幼児期
時代
父誠一郎(大分女子師範-現在大分大学)の勤務地である大分市内で紀元2600年、第三子、長男として生まれた(2人の兄は、早産死であった。戒名は父母の生前にもらった)。父は京都府相楽郡上狛出身であり、祖父(元町長)が、軍隊で苦労したので、3人の子どもには、兵役免除の教育職に就かせるために、京都師範に入学させた。兄と弟は、卒業後に京都市内の学校に奉職したが、戦後肺炎を患い、亡くなった。父は卒業後、教員となり、しばらくして、東京高等師範学校に入学し、卒後千葉師範認知に勤め、又暫くして教育大に30歳で入学した。母は隣町の木津町出身で、祖父もまた町長を務めた。近衛兵に派遣されていた。母は大阪家政専門学校(現大阪市立大学)を修了し、結婚前には、大阪で教員をしていた。結婚後は専業主婦になり、父の転地を転々とした。大分には、5才までいた。大分での記憶は、別府温泉に家族で行ったこと、防火演習、防空壕掘りと避難、商売劇で役者が立ち回りで、怪我をしたのを見たことと屏からの落下であった。両目の間に怪我をした。移動できる家具が制限されていたので、それを運ぶのを見に行ったのを覚えている。空襲が激しくなり、満員の山陰線を使い、仏壇を持って、母の実家に疎開した。母の実家についた時に祖母が亡くなった直前であった。幸いに、京都・奈良には爆撃をしないことになっていたので、空襲はなかったが、時々数個の爆弾が投下されてが、町には被害がなかった。終戦の玉音放送を皆でラジオの前で聞いた。敗戦後に直ぐに連合軍の武器狩りが行われ、町にジープがきたのを覚えている。学徒出陣していた叔父が、復員してきた。腎臓を患い、町医者の紹介で、京都府立大学病院に入院した。その頃の思い出は、ブドウ糖投与であった。しばらく母の実家に留まった(2009年に父出身の市と母出身の市が合併し、木津川市になったー何か運命を感じる)。父が三重師範に転勤になったので、三重県津の高寺屋に移った。隣には本山(後に名古屋大学教授、名古屋市長)がいた。さらに、隣町(香良洲)の大学宿舎に移った。戦後の食糧事情悪化で、母の実家への米を貰いに行ったり、母の着物を売ったり、畑でイナゴを取ったり、川でうなぎを取ったり、釣りをしたり、海岸が近いために貝拾いをしたり、飼育しているさばき、肉を食べ、毛皮を使用した(定年後に就職した新設大学の隣の研究室の天野教授(教育学、元国士舘大学ー新設期間を過ぎたら、共もに辞職させられた)の父は、父の上司の校長であったーこれも奇遇であった)占領軍のジープが時々来り、近くの空港で破壊された戦闘機のガラスを広い、擦って匂いを嗅いだりした。
小学校
時代
小学校は三重県一志郡香良洲小学校に入学した。男の先生が担任であった。研究授業があり、電車ごっこをしたのを覚えている。指導者として自宅横に住んでいた青木先生が来て、視察していった。理科で柿の芽の観察があり、まだ食糧事情が十分でなかったので、それを求めて、町内の店を夜半まで訪ねた。近くに飛行場があり、爆撃された飛行機のガラスを拾い,擦って、ののにおいを嗅いだ。12月に父は愛知県豊川市の岡崎高等師範学校(終戦直前に創設された。当初は名の通り岡崎に設置されたが、敗戦後豊川に移転した)に赴任したので、転校することになった。担任の先生に連れられて、海岸で次に行くところを説明してもらった。
暮れの12月に、父の住んでいた宿舎に向かった。宿舎は兵舎であり、大阪大学に転出された森東吾(パーソン研究者)の後に入った。隣人には、物理学の荒川教授(息子は、まだ生まれていなったが、東大先端技術研究所長)、数学の関口教授、化学の水野教授と教育学石黒教授(奥さんはピアニストで、NHKにも出ていた)。士官用の一軒家と兵舎が、宿舎になっていた。北と南に宿舎があり、その間には、運動場があった。北には、宿舎と付属中高の学舎と3棟の宿舎、北には学生寮と宿舎であった。校長は松原教授(生物学専攻。御子息は阪大松原教授ー高等教育教育改革で、構成員の教官の将来、新制大学への就任保証、に尽力され、自身は、地方大学に最後に移った。部下思いの人間であり、先生の利他的態度、,組織や社会でのリーダシップ重要さを教えていただき、感謝し尊敬している。その後の大学教官生活では、自己保身的な役職的教官には、その像から程遠い事を経験した).。
1年2学期末に転向した。当時の転校は、教科書が十分でなく、母親が、友人から借りて書き写していた。小学生3名分であった。担任は副校長であった。2年になると日大で学徒動員から戻って男の先生であった。九九の授業を覚えている。先生は代用教員であり、次の年に名古屋の海上保安隊に転職した(名古屋に転校後、海上保安船で、港を案内してもらった)。春休みには、自宅に招待していただいた。3年の時は女性の先生であった(後日代用教員であったことを聞いた)。先生は、当時流行りだした野球のために、布でボールを作ってくださった。当時一両の名鉄電車が豊川稲荷神社迄走っていた。レールに金属を置いて、伸びる棒作りが流行っていた。名鉄の会社からクレームがつき、背の高い子(当時は130cmあった)であるとの通報で、校長室に呼ばれたり、自宅に刑事が来て尋問を受けた。問題の時間には、父が胃腸を壊し、その薬を貰いに行っていたので、嫌疑は晴れたが、校長からは何ら報告がなくて不安であった。6月に戦時中の爆弾で出来た池に入り、右足を切った。附属の養護の先生に、自転車で市内の大きい病院で処理して貰ったが、十分な消毒がなされず、可能し、市民病院で再度処理してもらった。今もケロイド状になっている。2学期に隣の学校から,女子の転校が来た。小柄で、可愛い女の子であった。成績も優秀で、学芸会で、心に太陽の劇で出ずっぱりであった。2年次には、大国主の尊役で、袋を担ぐのに苦労したが、彼女は出ずっぱりで、多くのセリフを覚え、感心した。上海からの帰国者で、生母が、帰途時に二人の女児(Yと1歳下)を残して亡くなり、その妹が後妻に入り養育していた。その子(以後
Y)に同情した(Yとはその後文通するようになったが、親の策謀で、交流は途絶えた‐これは大学時代の項に述べる)。Yに負けないように、努力した。4年次には、クラス替えで、Yとは別のクラスになったが、友達と画策し、会う機会を作った。5年次には再びYと同じクラスになり、共にクラス委員(男女各2名)になった。担任は、母と同じ年の色々な教材を開発した男性の先生であった。5年次に、病休の友達見舞いに4名のクラス委員が行き、お礼にチョコレートをもらたので、各自が家に持ち帰った。そのことが問題になり、男子のクラス委員が罷免された。何故男子だけであるかについて説明がなかった。このころは、学習指導要領が変わったことを後に知った。敗戦の民主化が進んだが、サンフランスコ条約締結で、独立し、警察予備隊(後の自衛隊)や公職追放解除など右傾化が始まっていた。その頃は、野球、ソフトボール、に熱中した。背が高いということで、ファーストを守った。学校にはプールがないので、小川で泳いで。このころ校庭の脇に流れる佐奈川土手に桜を植えたこともある(今では桜通になっている)。官舎でも、教官や学生から色々指導を受けた。打席で、投手方の足を上げて、タイミングをとる方法をも教えてもらった。高等師範の学生からは、そろばん、夏期講習、学祭での展示物説明、演劇公演招待など、交流が多くあった(一人は、そろばんを教えくれた学生は、後に都立高校に赴任し、50年振りに合うことができた。また化学を教えてくれた学生には、卒業して帰ると時に見送った。その時岐阜に帰ると聞いていたので、同窓会名簿を探したが、見当たらなく、姓の一字が、臼と言うことを覚えていたので、岐阜−臼・で探したが見当たらず、臼のつく人に手紙を書き、50年ぶりに聞いていた岐阜とは異なり、静岡に在住(家庭の事情で移ったとのことである。静岡の高校の教師を務め)で、再開することができたが、その後、訃報を受けた)。友達ともよく遊んだ。引き揚げ者用の住宅の地区があり、そこのよく遊びに行った(中村、安井、山浦)。中村君とはクラス委員であり、罷免された組である(不思議なことに彼が前任校の卒業生であることを、50年後に知った)。山浦君の家族は、東京からきたこともあり、大変モダンであり、当時珍しかった紅茶を御馳走してもらったりした。安井君は卒業後は地元の会社の東京事務所駐在であった。特に懇意にしていたのは、伊藤君であり、彼は母子家庭で、母親が地元の繊維会社の給食担当をしていた(後に給食会社を設立)。6年時の4月頃に父が名古屋大学教育学部に転出した。名古屋まで父は通い、交通費で残ったで残った5円玉をもらい、その後それで、カメラを買った。5月には修学旅行で、伊勢・志摩に行った。当時は、食糧は配給であったし、旅館も米不足で、各自1合持参であった。集合写真の代金を払ったが、転校後も受け取ることがなかった。7月には名古屋に引っ越した。今までの広い兵舎宿舎(12畳2室、8畳一室)とは異なり、2K(4.5畳2室とキッチン、風呂)、水洗トイレ)の新築の市営住宅であった。小学校や市の中心に近い所であった。担任は、奈良女卒の女性教師であり、能力編成によつ教育を実施していた。侵入者に対してのいじめも経験した(下駄箱から、靴を隠す。犯人が特定されたので、母と共に談判したことがある)。)
中学校進学に、愛知教育大付属を希望し、近くの元教員の塾に通った。付属希望したのは、岡崎高師時代に、付属を見ていたことによる。準備不足で敢無く沈没であった。
中学校
時代
 中学は学区の公立中学、北山、に進学した。北中には、進学前に大須事件に関与した教員が逮捕された(その指揮をしたのは、市警本部長の同級生の父であった)。進学後に、親にお願いしてYMCAの英語塾に通った。YMCAでは、半期で1年分も進む。1年担当は、北村先生であり、先生は考古学が専門で、学生が授業を妨害した際には、教室の外に立たせるよりは、教室内で1000文字の漢字を書かせた。千銀の徒名であった。学年終了時には、学級委員を遂行した褒美に、女子の委員とともに岩波に英語辞書をもたった。2年次は数学の大森先生であり、授業より先にと数学の参考書を進められ、他の友人(後に東工大進んだ)とともに学習した。研究社の中学英語に応募し、バッチをもらったこともある。英語の小川先生は放課後に英語の補習をしてくれた(2名ほどの参加)。後期には、3年生が辞職するので、生徒会長になった(議事進行を学習した。この経験が後の大学で役に立った。学部長の議事進行、運営の拙さは、彼らがその経験のないことを如実に示していたので、面白かった。原案が、意見開陳でコロコロ変わり、採決する有様。修正動議の提案、処理が欠けていた。よくクレームを付けたが、彼らはそれが理解できないので苦労した)。朝会での、校旗掲揚と全校生徒(1000名近い)への報告が義務付けられていた。3年次は津田先生であった。Yとの交流は続き、月1回の手紙と春、夏の休暇時に、友人の伊藤君(2012死亡市内で給食センターを経営。父は28才で死亡、祖母、母、妹暮らし)宅に泊がでらに会っていた。幸いにも実力検査では、学年1位の時が多かった(一位の座を堕ちた時は、再度の挑戦に向けた)。高校進学では、学区制が変わり、広域になったが、学区外出身者は2割の制度であった。地区の学力検査では、100番内に入っていたので安心していたので、希望校である高校(旧一中)には分校があったが、それを併願しなかった。英語が受験科目には入っていなかった。試験後に、近くに住む希望高の教務担当の先生(後名工大に赴任し、教育実習巡回観察の際に校長として会った)から、併願がないが、僅かな点の差異であるから、是非そこに進学するように促された。大変有難かった。同じ中学から5名受けたが、内2名は、校区内に移してあったパスし、2名が本校に、私が分校(春日分校、現在春日高校)に行くことになった。
高校
時代
 高校は、JR鶴舞乗車し、勝川下車、徒歩15分の所にあった。本分校一体ということで、校長(小川、後淑徳大学)が週1回漢文を教えに来校した。同級生には、校区内外の者が集まっていた。1級先輩にはYMCAでクラスが同じで、尊敬したいた者もいた(彼の英語表記は、右から左下でなく、左上から左下であった。彼はまた、名古屋からモーター付きの自転車で通っていた。タイプを教えてもらった。後日大学で彼に会った。工学部である。受験英語がなかったためであるが)。小学卒業時から、住所を旧校区内に帰留し、本校に進んだ友人の親が、本校の試験問題やプリントを届けてくれた。統一試験はなかったが、ダントツのトップであリ、それを続けた。世話してくれた先生も喜んでくれた。春休みに母の里に遊びに行っている際に付属の欠員募集があるので受けるよう連絡が入った。旅行中に英単語を覚えていた。その時は、Disappontであった。幸いに合格し、編入することができた。編入問題の英語の一つに、彼女を名古屋を案内するであった。編入手続きは元校で期待されていたので、かなり交渉の母親はてこずっだようであった。