所在地:川辺郡知覧町長里城内 アクセス:JR鹿児島本線鹿児島中央駅〜バス 文化財:国史跡 鎌倉時代初め、当地は知覧院と呼ばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が、郡司(ぐんじ)として治めており、地頭には島津氏初代忠久が臨んでいました。その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世(たいらのただよ)は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦しましたが、ともに没落してしまい、文和2年(1353)に、足利尊氏が島津氏5代島津貞久の弟、佐多氏の初代忠光の軍功を賞して、郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以後、知覧は佐多氏の領地となりました。 室町時代初め、知覧はそのころ南薩に勢力を張っていたが、伊集院氏の一族今給黎久俊(いまきいれひさとし)が押領して、島津氏8代目久豊に反抗していましたが、応永27年(1420)、ついに降伏しました。山田聖栄自記によると、島津久豊は知覧城「当時は上木場(かみこば)城と呼ばれていました」に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏4代佐多親久に与えました。これが知覧城に関する最も古い記録となっています。 その後、天正19年(1591)、佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移されました。10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。 元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それを待つまでも無く、知覧城は廃城となったものと思われます。知覧城はシラス台地のヘリに出来た侵食谷を利用して空堀とし、10余りの郭を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。(現地説明板等より) 私的満足度「★★」:知覧はいろいろと見所の多い町です。定期観光バスにて訪問。 |
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