42長崎県 対馬の神社
和多都美神社 所在地:長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮55 アクセス:車のみ 文化財: 豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊(山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること3年、豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。 大潮の時期、満潮をむかえた境内では社殿の近くまで海水が到達することもある。その光景は龍宮を連想させ、豊玉姫命と彦火火出見尊の出会いに由来する「玉の井」や、満珠瀬・干珠瀬、磯良恵比須の御神体石などもある。 また、本殿の裏手の海宮山の原生林の中を少しく歩くと、磐座がみえてくる。この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。ただ、豊玉姫命は”仁位の高山”に葬られたと社家には伝承されているので、この磐座は恐らく古い斎場の跡であったものが、戦後の混乱期に社家がいったん途絶した為、「豊玉姫の墳墓」と言われるようになったと考えられる。豊玉姫命を仁位の高山に葬った事については『楽郊紀聞』に和多都美宮司(わたづみのみやじ)が語ったものが記録されている。(ウィッキペディアより) 私的満足度「★★」:海神神社とはうって変わってここは大量の韓国人ツアー客が来ていました。確かに海神より遥に眺めも良くインスタ映えします。 |
鶏知住吉神社 所在地:長崎県対馬市美津島町鶏知字甲1281番地 アクセス:車のみ 文化財: 式内社の住吉神社とされる。鴨居瀬の住吉神を遷すとある。延喜時代(901年以前)の勧請と云うことだろう。 康永元年(1342)、太宰府の命令により、放生会神事を再興している。神功皇后が新羅から帰還の折りに鶏知の行宮に入り、和多都美神社を造営したが、当社はその神社であるが、白江山の住吉神社が合祭されたと、阿比留家に伝わる中世文書にある。住吉=和多都美+八幡ということか。 筒には星の意味があるのは金星を夕つつと呼ぶことからも明かで、星こそ航海の重要な目印であり、海の守り神として相応しい。オリオン座の三ツ星の神格化が三筒男と思われる。住吉大神は『日本書紀』(神功皇后紀)で、住吉三神を形容して、海草のように若々しく生命に満ちている神と称えているが、まさに少童神であり、不合尊である。 神功皇后が黒瀬の城山に登り四方を眺望した時、東方から鶏の鳴き声が聞こえたので、村のあることを知り、当地に宮を造営した。 在庁官人の阿比留氏の居館とされる跡がある。神主家。弘仁年間(810~824)対馬に来寇した刀伊賊を討つたっめ、上総国畔蒜郡に配流されていた比伊別当国津の子ららが勅命を受けて来島、その軍功で掾官となり対馬にとどまって阿比留氏と称した。遠祖を蘇我満智とする。(神奈備HPより) 私的満足度「★★」:「けち」の住吉神社というちょっと不名誉な名称です。 |
厳原八幡宮 所在地:長崎県対馬市厳原町中村清水山645-1 アクセス:厳原港〜徒歩 文化財: 社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったという。677年(天武天皇6年)[1]、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝える。 1476年(文明8年)の棟札写に「それ当社はすなわち州の男山の原廟にして万世鎮国の霊神なり」とあり、八幡信仰の中心である石清水八幡宮の起源ともいわれている。 対馬には上県郡と下県郡に八幡宮があり、上県郡のものを上津八幡宮(現 海神神社)、下県郡の当社を下津八幡宮と並び称した。戦国時代ごろから府中八幡宮と称されるようになった。 1871年(明治4年)、当社が式内名神大社「和多都美神社」に比定されて和多都美神社に改称し、また対馬国一宮であるとしたが、1890年(明治23年)に元の八幡宮に戻して地名から「厳原八幡宮神社」とし、現在は式内社・対馬国一宮と称していない。明治7年に郷社に列せられ、1916年(大正5年)に県社に昇格した。(ウィッキペディアより) 私的満足度「★★」:町の中心部に鎮座する八幡宮。小西マリアも祭神になっています。非常に霊気あるスポットでもあります。 |