42長崎県 壱岐の神社

   

聖母宮

所在地:長崎県壱岐市勝本町勝本浦554-2

アクセス:車のみ

文化財:

仲哀天皇9年(200年?)10月、神功皇后が三韓征伐の折、壱岐で風待ちをした時に行宮を建てたのが起源とされる。この時神功皇后は北へ向かうのに良い風が吹いたことから、この地を風本(かざもと)と名付けた。同年12月三韓から凱旋時に勝利を記念して、風本を勝本に改めた。その時に敵の首101500をこの地に埋めたという伝承が残る。その後行宮は放置されたが、海より光るものが上がってくる事件が起き、その際に鏡を奉納し神功皇后を祀ったとされる。

養老元年(717年)、国家鎮護が祈願されて社殿が建てられる。聖母宮ではこれをもって神社の創建としている。古来より国主の崇敬厚く壱岐七社の一つとして、また壱岐国二の宮とされた。古来より福岡市の香椎宮との繋がりが深く、香椎宮(香椎大明神)を名乗っていた時期もあり、さらに地元が香椎村を名乗っていた時期もあった。しかし当社が香椎宮の分社というわけではない。

『本朝神社考』では式内小社、手長比売神社に比定された。延宝4年の橘三喜の査定では、当社と勝本町北触の中津宮(現中津神社)を式内大社、中津神社に比定したが(手長比売神社は勝本町本宮西触の手長比賣神社に比定)、中津宮が中津神社に改称され、こちらが式内中津神社とみなされるようになった。社伝では、「過ちありて式内社の資格を失った」としている。しかし、現在の中津神社を式内中津神社とすることには否定的な意見が多く、『式内社調査報告』では聖母宮が式内中津神社であり、現在の中津神社はその分祀であろうと記している。

なお、所在地が長崎県で、神社名に「聖母」とあることからキリスト教と関係があると誤解を受けることがあるが無関係である。(ウィッキペディアより)

私的満足度「★★★」:キリスト教とは全く関係ありません。壱岐の二宮だそうです。加藤清正による石垣などもあり、非常に楽しめます。

         

 

   

月読神社

所在地:長崎県壱岐市芦辺町国分本村触1369

アクセス:車のみ

文化財:

延宝以前の由緒来歴は不明。延宝4年(1676年)に平戸藩の命を受けて壱岐島の式内社の調査を行った橘三喜が当神社を式内名神大社の「月読神社」に比定し、同年61日に藩主松浦鎮信により石祠と神体として木鏡1面が奉納され、以後しばらくは式内社とされたが、それ以前は特段の祭祀設備もなく単に「山の神」と称されるのみであった。三喜が式内社と認定したのは鎮座地が「清月(きよつき)」と呼ばれていたからであったが、別に「ふかつき」とも呼ばれており、その語源は「ふかふち」であると見られるので、この三喜の判断には疑問が持たれている。

神功皇后が三韓征伐の際に腹に当てて出産を遅らせたとされる石、月延石の内一つが奉納されているとされるが、現在所在が分からなくなっている。古来はかなりの社格を持った神社だとされているが、長い間忘れ去られていて現在氏子など地元住民や島外の崇敬者によって、社殿などの整備が行われている最中である。社殿は木々に覆われていて、昼なお暗く月の神を祀る神社らしい風情がある。

なお、壱岐島の月読神社に関しては、『日本書紀』顕宗天皇紀に、同天皇3年(西暦487年)、阿閉臣事代が任那に使いに出された時、壱岐島で月神が憑りついて宣託をしたので天皇に奏上し、壱岐島から月神を勧請して山城国葛野郡歌荒樔田の地に葛野坐月読神社を創建したとあり、その元宮とされる。(ウィッキペディアより)

私的満足度「★★」:伊勢神宮の内宮別宮「月讀宮」(つきよみのみや)や外宮別宮「月夜見宮」との関係も気になるところではありますが、ここは月読「神社」です。

 

       

壱岐神社

所在地:長崎県壱岐市芦辺町瀬戸浦264番地

アクセス:車のみ

文化財:

1281年(弘安4)の弘安の役で戦死した少貳資時を祀った神社。昭和19年に本殿が造営された。1500年の歴史をもつ壱岐の神社の中ではもっとも新しい神社である。「ショウニイ様」と呼ばれる石積みの塚が資時の墓であることが分かったのは明治31年のことで、600年以上も語り継ぎ守ってきた地元の人々の信仰心が形になった。300円の猫恵比寿のおみくじが可愛い。(壱岐観光ナビHPより)

私的満足度「★★」:新しいのですが、少貳資時を祀った神社でもあることから壱岐の護国神社にもなっています。まわりは烽火台とかもあり、絶景の海岸がみられます。

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