スコットランド出身の起業家トーマス・ブレーク・グラバー(1838-1911)は、1859(安政6)年、開港と同時に上海から長崎に来てグラバー商会を設立し貿易に従事しました。
幕末から明治にかけて、薩摩藩や佐賀藩と協力して小菅修船場や高島炭坑の建設や事業化に協力し、後に三菱の経営にもアドバイスを与え、石炭・造船・鉄道などの分野で外国の機械技術を導入し、日本の近代文明の進展に尽力しました。
また、幕末の激動の時代の中、坂本龍馬を始めとする志士達を陰で支え伊藤博文らの支援など、若い人々への多大な援助を惜しまず、明治維新を推進した陰の立役者でもありました。
グラバーは、当初居住地がいくつか変わり、その後、南山手3番地の広大な敷地(1619坪)に庭園と木造洋風の住宅を建てました。この南山手の高台からは、長崎の港と対岸に現在の三菱重工業(株) 長崎造船所が一望できます。
建設年代は主屋より発見された墨書により1863(文久3)年であることが確認され、木造洋風建築としては現存する日本最古の遺構になります。
棟梁は大浦天主堂等を請負った天草の小山秀(こやまひいで)であったと思われます。
旧グラバー住宅の主屋は、建築当初の平面は逆L字型をしており、その後の増築で、逆L字型からT字型へと変化し、さらに四つ葉のクローバーのように広がりました。
旧グラバー住宅は、英国コロニアル様式と日本の伝統的な建築技術の融合を示しています。日本瓦や土壁を用い、半円形を描く寄棟式屋根、石畳の床面に木製の独立円柱があり、柱間には吊束を持つアーチ型欄間、化粧軒、木造菱格子の天井を持つ広いベランダが特徴です。
当時の写真の一つに、グラバー住宅下の日本庭園に商品を並べ、グラバーと数人の西洋人、ビジネス相手らしき武士を写したものがあります。
グラバーは、居住や文化交流だけでなく、ビジネスの場としてもこの場所を活用していたことがうかがえます。
1908(明治41)年、日本の近代化に大きく貢献したグラバーの功績が認められ、日本政府は勲二等旭日重光賞という、栄誉ある勲章を与えました。当時、外国人に対して勲章を授与することは異例なことでした。
その功績があり、1961(昭和36)年、主屋と附属屋が国の重要文化財に指定されました。
1974(昭和49)年には、外国人居留地であったこの地に元々あった国指定重要文化財の旧リンガー住宅・旧オルト住宅や市内の移築復元した6つの明治期の洋館とともに、「グラバー園」の中心となる施設として開園し、今日に至っています。(明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域HPより)
私的満足度「★」:「邸」の写真がなくて申し訳ありません。眺めの良いところにある豪邸といったイメージしかありません。
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