松下村塾は、日本が近代化、産業化を成し遂げていく過程で、重要な役割を担う人材を教育した機関です。 塾を主宰したのは、萩(長州)藩校明倫館の兵学師範であった吉田松陰(よしだしょういん)です。松陰は数え年で21歳の時から国内各地を訪ね歩き、知識と見聞を広めます。しかし、25歳の1854(安政元)年3月、直接自分の目で西洋の実情を確かめたいとの思いから、伊豆下田沖に停泊していたペリーの黒船に弟子の金子重輔(かねこしげのすけ)とともに乗り組み、アメリカへの密航を志しますが、失敗して萩の野山獄に閉じ込められました。 その後実家の杉家で謹慎生活を命じられた松陰は、1856(安政3)年3月、教えを請いに集まってきた親類や近所の若者たちに、実家の幽囚室で講義をはじめます。家族は人数が増え続けることを心配し、1857(安政4)年11月、小屋を修理して松陰に塾舎として使わせます。この8畳1室の塾舎が松下村塾です。塾舎を得た松陰は、幽囚室から移って塾生と共同生活を開始します。1858(安政5)年3月には、塾生が増えたため、10畳半の部屋を増築、塾舎は18畳余に拡充されました。萩(長州)藩は1858(安政5)年7月、松下村塾を公認しますが、同年12月、幕府政治を批判する松陰を再び野山獄に投じ、松陰主宰の松下村塾は閉鎖となりました。松陰の2つの建物での講義は、2年10ヶ月でしたが、この間に約90名の塾生を指導しました。 私的満足度「★」:どうということもない掘立小屋でもあります。 |