33岡山県 旧閑谷学校

フレーム

所在地:岡山県備前市閑谷
アクセス:JR山陽本線吉永駅〜タクシー
正式名称:旧閑谷学校講堂 きゅう しずたにがっこう こうどう
国宝番号(指定日付):160号(昭和28年11月14日)

 今をさかのぼること約330年。時代は封建制度の真っ只中、武士による厳しい民衆支配が行われていた頃の事である。
 なんとこの時代に日本最古の庶民学校が築かれた。その教育内容はもちろんの事、建造物としても大変立派なこの学校。郷土の誇り、閑谷学校である。
 閑谷学校の歴史は、寛文6年(1666)に備前藩主池田光政公が国内巡視をして、静寂な山ふところに学問の理想郷を思い描いたことに始まる。同8年に光政公はこの地に手習所を設置、ついで同10年には重臣津田永忠によって本格的な学校建設が始まった・・・。寛文6年(1666)、領内巡視をしていた備前藩主池田光政は和気郡木谷村の北端・延原の静かな地を訪れた。この時彼の脳裏に浮かんだのが、学問の理想郷、庶民のための一大道場の建築でした。その思いを実現すべく同8年にはこの地に手習所を設置、ついで同10年には重臣津田永忠によって本格的な工事にとりかかり、地名も閑谷と改められました。この学校建設にあたっての光政公の情熱は熱く、たとえ池田氏が移封となっても自立経営できるようにするなどの処置がとられていました。建築物の屋根瓦は備前焼が用いられていますが、そのために近くにわざわざ窯を築き、伊部から陶工を呼んで焼いて用意しました。
 この情熱は次の綱政公にも引き継がれていきました。現在残されている諸施設は綱政公と津田永忠によって元禄の頃に完成されたもの。しかし、そのデザインや建築技術は現在においても決してその輝きを失っていません。またこの学校は領内の庶民と武士の子弟はもちろん他領の者も入学を許しており、光政公や永忠に始まる創学の精神はその後も連綿と受け継がれ、頼山陽などの学者文人がたびたび足をとどめるなど、岡山城下にある藩学校と並んで二大教育道場となっていました。明治になってもその歴史と伝統は消えず幾多の人材を世に送りだし、今日に至っています。(岡山県備前市HPより)


写真上:講堂
写真下:校門
私的満足度「★★」:吉永という比較的不便な駅から往復タクシーとなりましたが、来て良かったです。校門や石塀も重要文化財で見応えたっぷり。紅葉の時期も良さそうです。


目次にもどる

直線上に配置