所在地:京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 アクセス:地下鉄二条城前〜徒歩 形式・作庭:書院造庭園・小堀遠州、疎林式庭園・小川治兵衛 文化財:国指定特別名勝 ・二の丸庭園 作庭の年代については記録や作風から推測して、慶長7年(1602)〜8年(1603)頃(家康時代)二条城が造営されたと きに、その建築に調和させて作庭されたものですが、寛永3年(1626)(家光時代)の御水尾天皇行幸のために一部改修を加えられたと考えられています。書院造庭園である二の丸庭園は神泉蓬莱の世界を表した庭園と言われ、また八陣の庭とも呼ばれています。後水尾天皇行幸当時の姿は、新たに増築された行幸御殿、中宮御殿、長局等に取り囲まれた中庭的な庭園としてつくられ、池の中に御亭を建て、池の中央に2つの島、4つの橋を 併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の 座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました。 とくに、大広間からは庭園ごしに天守閣が一部望めたものと思われます。その後行幸の翌寛永4年(1627)から四半世紀にかけ、二の丸庭園を取り囲んでいた行幸諸施設は移 築・撤去され、小堀遠州の作庭意図も薄れていきました。3代将軍家光の上洛以降、14代将軍家茂が上洛するまでの、229年間将軍不在のまま幕 末を迎えます。その間事由は定かではありませんが、吉宗の時代に庭園の改修が行なわれました。時代は下り、15代将軍慶喜の上洛時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し、荒廃していきました。大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用されました。特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられます。京都市に下賜されてからの二の丸庭園は、昭和14年(1939)名勝に指定、昭和28年(1953)に 国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の一つとして維持され現在に至っています。 ・ 清流園 創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天守閣の一部が存在していたと推定されます。しかし、寛永元年(1624)〜同3年(1626)(家光の時代)にかけての二条城増改築の折、天守閣は淀城に移築されて空地となりました。寛永11年(1634)以降、同心(幕府の役人)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったことが確認できます(但し、一時天明の大火で焼失)。同心らの住まいは明治前期に撤去されたと考えられ、緑地に整備されたと思われます。大正4年(1915)には大正天皇即位式饗宴の儀の会場として利用され、饗宴施設等が増築されました。翌大正5年(1916)より城内の復旧工事が行われ、饗宴施設の一部は岡崎桜の馬場(現在の京都会館付近)へ移築撤去され、その跡地を有名な造園家小川治兵衛氏によって疎林式庭園に復旧されました。(二条城HPより) 私的満足度「★★」:小堀遠州、小川治兵衛です。特別名勝です。さらにこの地は国宝・世界遺産ですから日本一のブランド庭園でしょう。 |
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