所在地:富士吉田市上吉田3-14-8
文化財:世界文化遺産の構成資産
富士山信仰を支えた御師(おし)の家。平安時代以前は、富士山は登らず裾野から遥拝していましたが、仏教の影響によって、登拝するという祈りのかたちに変わりました。富士山の裾野にある御師の家を宿坊とし、富士吉田の街は富士道者によって賑わったそうです。一時は80軒以上あったという御師の家。旧外川家住宅の母屋は1768(明和5)年に建造され、御師の家の中でも古く、貴重です。廊下でつながっている奥座敷には立派な御神前があり、食行身禄像が鎮座しています。
屋敷内には、旧外川家住宅で使われてきたものや、富士山信仰に関わりのあるものが並び、御師とはどういう役割なのか、富士山信仰とはどういう祈りなのかを伝えています。要望があれば地元スタッフの説明付き。山梨県の指定文化財であり、富士吉田市歴史民俗博物館の付属施設です。
御師住宅(旧外川家住宅)は、『信仰の対象』としての富士山の顕著な普遍的価値を証明する上で不可欠の構成資産です。資産には、旧外川家住宅及び小佐野家住宅の2つの御師住宅が含まれます。しかし、後者が1861年に再建された富士講最盛期における平面構成を現在に伝える事例であるのに対し、前者は1768年に建造され、遺存状況の良好な最古の御師住宅の貴重な事例です。したがって、両者はともに御師住宅の建造物及びその敷地の意匠・構造を表す代表的・典型的な事例であるのです。
御師は、夏季に富士講信者が登拝を行うのに当たり、宿泊・食事の準備をはじめ一切の世話を行うとともに、日常は富士山信仰の布教活動及び祈祷を行うことを生業としていました。富士山の御師を代表する吉田の御師は、吉田口登山道の起点となる北口本宮冨士浅間神社の門前の地域において、南北方向の道路の左右に御師住宅が建ち並ぶ大規模な集落を形成しました。御師の屋敷は間口が狭く、奥に長い短冊状の地割を持ちます。表通りから延びる導入路の途上には敷地内を横切る水路があり、その奥に住宅兼宿坊の機能を持つ主屋が建つのです。
旧外川家住宅では、まず、先達に導かれて到着した富士講信者たちは、導入路を横切る水路において手足を清めました。その後に主屋へ到着すると、御師の導きにより、先達は式台玄関から、その他の富士講信者たちは庭に面する縁側から、それぞれ主屋の内部へと入りました。式台玄関から奥へと客室が続き、主屋の奥に増築された離れ座敷には神殿が設けられています。離れ座敷を増築する以前には、主屋の最奥部に神殿の設けられた部屋が存在しました。御師及び富士講信者たちは神殿の前に集まって拝礼の儀を行い、登拝の準備を行いました。1768 年に建てられた旧外川家住宅は、現存する御師住宅の中でも最古の事例です。富士講の隆盛により、訪れる富士講信者の数が爆発的に増加したことに対応するため、旧外川家住宅では御縁年に当たる1860年の頃に離れ座敷が増築され、神殿が設けられました。(旧外川家住宅HPより)
私的満足度「★★」:富士山駅から北口本宮浅間神社にお参りする途中にあります。こちらにかぎらず御師の家が通り沿いに何軒かありました。
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