坂上弘氏作成の年譜を参考に作成しました


昭和5年(1930年)
2月25日、東京市下谷区(現東京都台東区)上野桜木町16番地に日本画家である父山川嘉雄(雅号秀峰)、母綾子の長男として生まれる。本名嘉巳。姉に喜佐子、美奈子、妹に佳代子、由紀子の5人姉妹であった。

昭和8年(1933年)3歳
4月、品川区下大崎2ノ183番地の通称島津山に転居。以後当地に育つ。

昭和9年(1934年)4歳
芝白金三光町の聖心附属幼稚園に通う。

昭和11年(1936年)6歳
4月7日、慶應義塾幼稚舎に入学。

昭和14年(1939年)9歳
幼稚舎には「文と詩」という校友誌がありこれに嘉巳の作文が載っている。(筑摩版全集第7巻に所収)

昭和17年(1942年)12歳
幼稚舎修了卒業。4月、慶應義塾普通部に進学。

昭和18年(1943年)13歳
普通部2年。8月神奈川県中郡二宮町二宮97番地に転居。

昭和19年(1944年)14歳
普通部3年。12月29日、父秀峰、二宮の家で脳溢血で急逝。享年46。

昭和20年(1945年)15歳
8月15日の敗戦を二宮の家で迎える。二宮の家には喜佐子、嘉巳、母が一緒にいた。

昭和22年(1947年)17歳
この頃二宮在住の劇作家、梅田晴夫を母に連れられて訪ねる。
3月、普通部卒業。4月、慶應義塾予科文学部進学。

昭和24年(1949年)19歳
3月、予科制度が終り、4月、新制大学2年にきりかわる。梅田晴夫の影響もあってフランス文学に興味をもつようになっており、仏文科へ転出する。

昭和25年(1950年)20歳
8月〜9月にかけて「バンドの休暇」を書き、慶應義塾大学文学部会の機関誌「文林」9号(12月発行)に載せる。筆名に山川方夫を使う。ペンネーム・山川方夫の由来は、父秀峰の師鏑木清方の「方」と、私淑していた梅田晴夫の「夫」を取って付けたという。

昭和26年(1951年)21歳
9月同人誌「文学共和国」を桂芳久、若林眞、田中倫郎、林峻一郎、守屋陽一、蟻川茂男らと発刊。「文林」10号(12月刊)に「安南の王子」を発表。

昭和27年(1952年)22歳
卒業論文「ジャン・ポオル・サルトルの演劇について」を1月に書く。2月、「仮装」を「文学共和国」2号に発表。3月、仏文科卒業。4月、大学院文学研究科仏文専攻に入学。4月、「娼婦」を「文学共和国」3号に発表。7月、「歌束(上)」を「文学共和国」4号に発表。同誌はこの号をもって廃刊。

昭和28年(1953年)23歳
「三田文学」は木々高太郎が主幹となり、3月号より復刊した。編集協力者として山川も積極的に企画や編集実務にたずさわった。「昼の花火」を「三田文学」3月号に、「春の華客」を「三田文学」7月号に発表する。7月、大学院を中退。山川が中心になって「三田文学」11月号で折口信夫追悼号を企画編集する。

昭和29年(1954年)24歳
「煙突」を「三田文学」3月号に発表。「三田文学」は5月号の加藤道夫追悼号で再び休刊したが、10月号より復刊にこぎつけた。いわゆる「戦後第3次三田文学」と称した。編輯担当に桂、田久保、山川の3人がなり、編輯委員には内村直也、北原武夫、佐藤朔、戸板康二、丸岡明、村野四郎、山本健吉がなる。編輯発行人は奥野信太郎がなり、三田文学会という新たな組織を作り発行所とした。「三田文学」は80頁のリトルマガジンであったが編集には合議制をとり、金銭面では寄付等に頼らない独立採算であった。第1号の目次に「逆立」安岡章太郎、「燕買い」曾野綾子、「雅歌(うた)」矢代静一を揃え、毎号新人による小説、演劇、詩、評論にも力をそそぐ方針をもつ。復刊第2号(11月号)には小沼丹、川上宗薫、遠藤周作、第3号(12月号)には桂芳久、佐藤愛子が小説を、奥野健男が「太宰治論−下降性の文学−」を載せる。

昭和30年(1955年)25歳
「三田文学」8月号に「遠い青空」を発表した。6月号の復刊後初めての創作特集に坂上弘、中田耕治、石崎晴央を載せ坂上の作品が芥川賞候補になったのを喜ぶ。江藤淳の「マンスフィールド覚書」を同人誌で見つけ夏目漱石論を11月号、12月号に書かせる。

昭和31年(1956年)26歳
「三田文学」には、曾野綾子、安岡章太郎、矢代静一、川上宗薫、遠藤周作、鬼頭哲人、佐藤愛子、奥野健男、八木柊一郎、村松剛、谷川俊太郎、服部達、坂上弘、江藤淳、浅利慶太といった多彩な顔ぶれが編集誌面に登場しその新鮮さが高い評価を得た。「頭上の海」を「三田文学」8月号に発表。「三田文学について」を「三田新聞」に発表。「三田文学」は10月号で満2年を迎えた。江藤淳と坂上弘を編輯担当に加え、編集事務を引き継ぐ。編集を退いてよりかねてからの構想によって長篇「日々の死」の執筆にとりかかる。

昭和32年(1957年)27歳
「日々の死」を「三田文学」1月号〜6月号まで連載。この6月号で山川、田久保、桂の始めた第3次「三田文学」は休刊した。

昭和33年(1958年)28歳
「日々の死」によって注目され商業誌に作品を発表し始める。「演技の果て」を「文學界」5月号に、「その一年」を「文學界」8月号に発表。「帰任」を「文學界」10月号に、「海の告発」を「文學界」12月号に発表。「演技の果て」は第39回芥川賞候補になる。11月、文学学校で講座「創作体験を話す」に出席。後に『現代文学講座』飯塚書店刊に収録される。この年11月、岸内閣の警職法改正案に反対して石原慎太郎、開高健ら新進作家、詩人、映画人、演劇人で作る「若い日本の会」が発足した。山川もこれに最初から参加した。12月、「新潮」翌2月号の座談会「僕ら文学する者に出席。河畠修、神崎信一、福田章二(庄司薫)らと語る。

昭和34年(1959年)29歳
2月、「文學界」3月号の座談会「芥川賞候補作家八発言−高見順氏をかこんで」に吉村昭、庵原高子らと出る。「その一年」「海の告発」が第40回芥川賞候補となる。3月、短篇集『その一年』を文藝春秋社より刊行。父秀蜂の友人であった佐野繁次郎に装幀を依頼する。「その一年」は1958年度下期『創作代表選集』に収録される。5月、『日々の死』を平凡出版社より刊行。真鍋博に装幀を頼む。5月、「三田新聞」早慶戦特輯号に「昼の花火」を改稿再録。5月、銀座米津風月堂にて『その一年』『日々の死』の出版記念会が開かれる。7月、「文學界」9月号に「画廊にて」を書く。8月、「三田文学」企画のシンポジウム「発言」のために「灰皿になれないということ」を書く。同月30日、31日東京築地の灘萬で開かれた2日間にわたるシンポジウムに参加。司会は江藤淳。このシンポジウムは浅利慶太、石原慎太郎、大江健三郎、城山三郎、武満徹、谷川俊太郎、羽仁進、吉田直哉が参加し、各紙で反響があり、日本の「怒れる若者たち」の発言とみられた。11月、「宝石」翌2月号に「十三年」を書く。当時流行しはじめたショート・ショートの山川の第一作であった。

昭和35年(1960年)30歳
1月、「新潮」3月号に「ある週末」を書く。3月、「お守り」を三社連合に書く。3月、『発言』河出書房刊に前年のシンポジウムが収録される。8月、「宝石」10月号に「ロンリー・マン」を書く。ショート・ショートは山川の好きなコントの世界であり得意とする分野であった。11月、「ヒッチコック・マガジン」2月号に「箱の中のあなた」を書く。

昭和36年(1961年)31歳
3月、「新潮」5月号に「海岸公園」を書く。「宝石」6月号に、「山川方夫コーナー」としてショート・ショートが再録される。この掌篇の分野での文名が上がり、脚色して放送されたりする。7月、「海岸公園」が第45回芥川賞候補になる。9月、短篇集『海岸公園』を新潮社より刊行。

昭和37年(1962年)32歳
ショート・ショート「親しい友人たち」を「ヒッチコック・マガジン」2月号から連載。翌38年1月号まで続く。2月、「軍国歌謡集」を書くが生前未発表になる。4月、安岡章太郎の紹介で寿屋(現サントリー)株式会社のPR誌「洋酒天国」の編集にたずさわる。5月、生田みどりと婚約する。「海岸公園」が昭和36年度『文学選集』に収録される。

昭和38年(1963年)33歳
5月、「文學界」7月号に「夜の中で」を書く。同月、短篇集『親しい友人たち』を講談社より刊行。10月、生田家と結納を交わす。10月、TBSでテレビドラマ「おかあさん」のシリーズを書く。「文芸朝日」12月号に「クリスマスの贈物」と題して3つのコント「星の光」「海がくれた花束」「お金と信頼」を書く。11月、洋酒天国編集部を退く。

昭和39年(1964年)34歳
1月、「クリスマスの贈物」が第50回直木賞候補になる。3月、「EQMM」に「トコという男」を連載し始める。5月、『長くて短い一年』を光風社より刊行。5月16日、佐藤朔夫妻の媒酌により赤坂・ヒルトンホテルにて生田みどりと結婚式を挙げる。7月、「新潮」4月号に発表した「愛のごとく」が第51回芥川賞候補になる。「お守り」(『親しい友人たち』所収)がアーサー・ケストナーの推薦で「ライフ」のアメリカ国内版9月11日号日本特集に掲載される。9月、「新潮」11月号に「最初の秋」を書く。10月、「小説現代」12月号に「千鶴」を書く。「文學界」11月号に旧作「煙突」(「三田文学」54年4月号)を改稿して発表。11月、「日本」1月号に「ゲバチの花」を書く。12月、「新潮」2月号に「展望台のある島」を書く。「煙突」が39年度『文学選集』に収録される。「待っている女」が『日本代表推理小説全集』光文社刊に収録される。12月、和田芳恵、北原武夫の推薦で日本文芸家協会に入会。

昭和40年(1965年)
1月、「小説現代」3月号に「春の驟雨」を書く。「風景」に「Kの話」(「帽子」として昭和30年頃書いたものを改作)を載せる。2月、「婦人公論」4月号に「遅れて坐った椅子」を書く。『愛のごとく』を新潮社より5月刊行が決まる。2月19日午後12時30分頃、二宮駅前の国道横断歩道で輸禍に遭い頭蓋骨折の重傷を負う。翌20日午前10時20分、大磯病院の病室で家族に見守られ死去。22日、二宮の自宅にて葬儀。葬儀委員長山本健吉。佐藤朔、山本健吉、友人代表で蟻川茂男がそれぞれ弔辞を述べた。4月9日、蒲田妙覚寺の山川家の墓に埋葬される。

没後
昭和40年3月、『愛のごとく』新潮社刊。
昭和40年10月、『トコという男』早川書房刊。
昭和44年6月、『山川方夫全集』全5巻刊行開始。(冬樹社刊)45年7月完結。
昭和47年5月、『山川方夫珠玉選集』上、下巻冬樹社刊。
昭和48年12月、『安南の王子・その一年』旺文社文庫刊。
昭和49年4月『愛のごとく』新潮文庫刊。
昭和50年8月、『海岸公園』新潮文庫刊。
昭和50年8月、現代日本の名作46巻『山川方夫・坂上弘集』旺文社刊。
平成3年5月、『夏の葬列』集英社文庫刊。
平成5年10月、『安南の王子』集英社文庫刊。
平成10年5月、『愛のごとく』講談社文芸文庫刊。
平成12年5月『山川方夫全集』全7巻刊行開始。(筑摩書房版)12年11月完結。
平成23年3月、『目的を持たない意志』清流出版刊。
平成24年9月、『歪んだ窓』出版芸術社刊。
平成27年9月、『親しい友人たち』推理創元社(文庫)刊。
平成27年11月、『展望台のある島』慶應義塾大学出版会刊。
平成29年5月『春の華客/旅恋い 山川方夫名作選』講談社文芸文庫刊。
平成30年1月、『山川方夫と「三田文学」展』県立神奈川近代文学館で開催。
         1月27日から3月11日まで(39日間)観覧者数4、777人。
平成30年3月、『山川方夫と「三田文学」展』記念講演会「山川方夫 人と文学の魅力」(坂上弘)県立神奈川近代文学館で開催。
         3月7日開催、参加者数205人。