アヤソフィア



アヤ・ソフィア(神の英知)は、ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝の遺志に基き、その子コンスタンティウス帝によって西暦360年に初めて建立された。しかし404年の暴動で焼失し、415年にテオドシウス・世が2番めの教会を完成させたが、532年、馬車競技での反乱(ニカの反乱)で破壊されてしまった。現在の建物は537年、ビザンツ帝国のユスティニアヌス大帝によって本格的に再建されたものである。ユスティニアヌス帝は、「アダム以来かつてなく、未来にも決してありえぬ」みごとさをもつ聖堂を建立するよう、小アジアのトラレス(エフェソスの奥)の人アンテミウス及び、ミトレスの人イシドルスに命じた。両者とも諸科学、特に数学に秀でていた技術者であったといわれる。献堂式の時、帝は我を忘れて説教段に駆け上がり、「おおソロモンよ、我は汝に優れり」と絶叫したという。そしてコンスタンティノープルは1000年以上に渡り、ビザンツ帝国の都としてアヤ・ソフィアとともに繁栄を続けた。
オスマントルコに征服後、偶像崇拝を禁じるイスラムの教えに従って教会時代に建物を飾ってきたモザイクは漆喰で塗り固められモスクに改められました。20世紀前半に博物館に代えられたあと石膏が削り取られ美しいモザイクが見られるようになりました。

<写真右下:ミフラーブの解説>
堂内の後陣にあるこの扉の様な壁龕(へきがん)は、聖地メッカの方角を示す「ミフラーブ」と呼ばれるものです。オスマン帝国に侵略された15世紀に「メフメット2世」によって追加されました。
本来、ミフラープは建物全体の中央に置かれますが、元々アヤソフィアはキリスト教の聖堂であったため、建物の中央がイスラム教の聖地「メッカ」を向いていませんでした。そのため、建物全体のやや右寄りに設置する事で調整を行いました。キリスト教の聖地「エルサレム」の方角とイスラム教の聖地「メッカ」の方角は、わずかに数度違う程度でした。

<写真上:絵葉書解説>
『聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世』
西南の玄関入口上部にあるモザイク画です。ユスティニアヌスがアヤソフィアを、コンスタンティヌスがコンスタンティノープル(現イスタンブール)を、中央に建つ聖母子に捧げている様子が描かれています。作成の時期や動機は定かではありませんが、10世紀後半のものとされています。


 
   

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