インド チットルガール城



チットルガール城(Chittor Fort)

7世紀にはじまり、メーワール王国によって支配された。9世紀から始まったパラマーラ朝に移った。1303年に、デリー諸王朝ハルジー朝のアラー・ウッディーン・ハルジーが、チットールガル城に籠城したメーワール王国国王ラタン・シングを打ち破り占領した。メーワール王国がその後再興するものの1535年にグジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーによって城が占領された。しかし、その直後にムガル帝国が撃退した。
1567年に、メーワール国王ウダイ・シング2世がムガル帝国アクバルへの服従を拒み続けたことから包囲戦が行われ落城した。この時、防御側の全ての兵士は儀式的に死兵となって突撃する saka を行い殉死し、女たちはジョウハル(自害)したとされる。
1616年に講和が行われ、アマル・シングに返却された。

◆クンバパレス (Kumbha Palace、写真左下) 
15世紀に建てられたクンバ王の王宮は、非常に大規模で多くの建物跡が残り、当時の王の権力の強さを感じさせます。宮殿の建築様式や装飾は、ラージプート様式の最初期のものと言われています。今は廃墟化しています。

◆パドミニー宮殿 (Padmini Palace、写真中央下)
城内の南側に残る、王妃パドミニーのために建てられた宮殿です。ゴームク(牛の口の意味)という名前の貯水池と中庭も有しています。
1303年、メーワール王国にハルジー朝が攻め込みました。その原因となったのは、一人の美しい王妃だと言われています。それがパドミニ(Padmini, Padmavati)。インド全土でその美貌は評判になっており、王でさえ直視することができず、宮殿の中に大きな鏡を設置し、水汲みに来たパドミニが水面に映る姿をさらに鏡に写してこっそり眺めていたそうです。ハルジー朝の王・アラウディンは、メーワール王にパドミニの姿を一目見せてくれたらメーワールへの侵略を諦めて撤退すると言いました。メーワール王は水面に映るパドミニの姿をアラウディンに見せましたが、その美しさをどうしても自分のものにしたいと考えたアラウディンは猛攻を仕掛け、ついに城は陥落。パドミニは敵の手に渡ることを拒み、城に残った女性たちと共に火の中に身を投げてしまいました。

▮勝利の塔 (Kirti Stambha、写真右下)
勝利の塔は、1448年ラーナー・クンバ王がムスリム軍に勝利したことを記念して建てられました。高さ37m、9階建ての塔。
勝利の塔の周囲には、戦争で殉死した夫の後を追って自ら命を絶った女性たちの墓石があります。こうして16世紀までに13000人を越える女性がなくなりました。


   

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