コンスタンツ大聖堂は、その起源を7世紀まで遡ることができる歴史のある教会で、15世紀にはコンスタンツ公会議の舞台になった場所としても知られています。高い尖塔を持つ外観は大変重厚で、内部は鮮やかなステンドグラスが美しく、厳かな雰囲気を感じることができる。
1414年11月1日から1418年まで、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝、兼ハンガリー王・ボヘミア王)ジギスムントの提唱で公会議が召集された。開催地コンスタンツはドイツ南部、スイスとの国境にあるボーデン湖に面した都市。会議には枢機卿33名、司教900名、学者2千人、世俗諸侯多数が参加した。
公会議という教会の意思決定の会議であるが、参加者に世俗の代表も加わったことで判るように、教会大分裂、フスの教皇・教会批判を西欧封建社会の総体的な危機として捉えた教会や世俗諸侯などの支配層が、危機を回避し体制の維持を図るために開催した、中世ヨーロッパにおける一種の国際会議という意味を有していた。
フスに対する処置は、ボヘミア王でもあったジギスムントにとって重要な課題だった。彼はフス派に対して同情的な気持ちもあったらしいが、会議の結論は厳しいものになった。フスは3日間にわたった審問の結果、異端であると断罪され、1415年7月6日に火刑に処せられた。フスに影響を与えたイギリスのウィクリフも異端であると断定され、すでに死んでいたがその遺体を掘り出され、著作とともに改めて火刑にされた。しかしこの処置は、現地ベーメンのフス派の農民の抵抗心に火をつけ、1419年からフス戦争(1419~36年)という農民戦争を引き起こすこととなる。
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