プラハ城(Prazsky Hrad) 100名城
プラハ城は880年頃、プシェミスル家のボジヴォイ公により創設されたと推定されています。城内で最初に建てられた石造りの建物は、聖母マリア教会でした。またこれに追加して、10世紀前半には聖イジー、聖ヴィートに捧げた教会も創設されています。
プラハ城は、国の君主(大公のちの国王)のみならず、教会の最高権力者、プラハ司教の本拠地でもありました。チェコ最古の修道院も、聖イジー教会に付属して、ベネディクト会修道院がプラハ城内に創設されています。
プラハ城が急速な発展を遂げたのは、チェコ国王で、後に皇帝となったルクセンブルク家のカレル四世の時代のことでした(14世紀半ば)。このときプラハ城は初めて皇帝、すなわち神聖ローマ帝国君主の本拠地となったため、王宮は大規模な建て替えがなされ、更に城壁が強化されました。そしてフランスの大聖堂を手本として、聖ヴィート教会の壮大なゴシック式聖堂への建て直しが開始されたのもこの時代でした。
城の改築が頂点に達したのは、皇帝ルドルフ二世の時代です。ルドルフ二世は、プラハ城に永久的に居を構え、城を堂々たる、壮麗な神聖ローマ帝国の中心地にして、外交官や芸術家、そして知識人にとって魅力ある場所へと変えていきました。皇帝はまた、その膨大な芸術・科学コレクションの保管場所として、宮殿に、今日のスペイン・ホールを擁する北翼を追加させました。
1618年のプラハのデフェネストレーション(民衆により窓から役人が投げ出された事件)後、国は長期的戦争に突入しますが、この戦争中プラハ城はしばしば強奪に遭い、荒廃していきました。君主の居住地として利用されることはごく稀で、利用されたとしても一時的なことに過ぎませんでした。プラハ城の最後の大改築がなされたのは18世紀後半で、このとき城は城館型の壮麗な君主の居住地に生まれ変わりました。しかしながらこの時代には、帝国の首都がウィーンに定められていたため、プラハは地方都市の様相を呈していました。
「◎旧王宮」(Old Royal Palace)
16世紀まで歴代王宮として使用されていた旧王宮。旧王宮の見所はヴラディスラフ・ホールです。16世紀にはヨーロッパ最大のホールでした。戴冠式や騎馬競技がここで行われていました。行き止まりの奥の小部屋の窓こそ、ヨーロッパ最大の宗教戦争ともいえる三十年戦争(1618~1648)が始まった場所。三十年戦争はプラハ窓外放擲事件から始まりました。
「●黄金小路」(Golden Lane)
プラハ城の見学順路に従って進むと聖イジー教会の先、左手に「黄金小路」の入口があります。16世紀の住居の外観を最もよく表しているのは、13番の家で、城の砲手のルネサンス様式の住居である。隣接する14番の家では、第二次世界大戦前の住居の模型を見ることができる。この時代には、有名な占い師で透視能力者のマチルダ・プルショヴァが住んでいた。作家フランツ・カフカは、第一次世界大戦中、22番の家に住み、仕事をしていた。映画史家でコレクターのヨゼフ・カズダは、ナチスによって破壊される運命にあったチェコスロバキア映画のコピーを12番の家に隠した。この家の展示は、象徴的に映写スクリーンを含み、映画創成期のプラハ城を描いた映画を見ることができる。12号邸の階段は、ダリボルカ塔の前のテラスに通じている。この円筒形の大砲塔は、ヤギェウォ朝の要塞の一部であり、その下層階は当初から牢獄として使われていた。最初の、そして最も有名な囚人は、1498年のコゾイェドの騎士ダリボルであった。
|