【世界遺産】モスタル旧市街の古橋地区
(Old Bridge Area of the Old City of Mostar)
ネレトヴァ川の渓谷沿いの古都モスタルは、15~16世紀にはオスマン帝国の国境の町として栄え、19~20世紀のオーストリア・ハンガリー帝国時代にも発展した。モスタルの街は長い間、水面から20mの天空にかかる古橋「石の三日月」とトルコ風の古い町並みで知られていたが、1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で街のほとんどが破壊された。橋と旧市街の建築物は、近年ユネスコが設立した国際委員会の協力によって修復、再建された。甦った橋とモスタル旧市街は和解と国際協力、そして異なる文化、異なる民族、異なる宗教の共存の象徴となった。
◯ コスキ・メフレド・バシャ・モスク(Koski Mehmed pasha's mosque)写真中段
オスマントルコ時代(1619年)に完成したモスク。「コスキ・メフメド・パシャ・モスク」の「ネレトヴァ川沿いの展望台」は「ビュー・ポイント」となっています。スタリ・モストの写真はここから撮影しました。
◯スタリ・モスト(Stari Most):写真上および下段
スタリ・モストはオスマン帝国に支配されていた時代の1566年に完成。当時、街の中心には、木製の吊り橋が架かっていましたが、地元の石灰岩を使いトルコ式アーチ型の石橋として架け替えられました。石橋を建設したのは、ミマール・ハイルッディンで、イスタンブールにあるスレイマニエ・モスクなどを建設した帝国一の建築家ミマル・スィナンの弟子です。モスタルの象徴でもあったスタリ・モストですが、1992年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で破壊されてしまいます。1993年11月のことでした。クロアチア軍から放たれた一発のロケット弾が側壁に命中し崩落。モスタルの象徴であった橋は、あっという間になくなってしまったのです。
1995年にボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終結すると、1997年から橋の再建工事が始まりました。まずは、川底から破壊された橋の残材を集める作業を行い、その後、引き上げた残材を乾燥させる作業を行いました。足りない石材は、創建当時と同じように地元の石灰岩が使用されました。再建には、ユネスコの支援を受けたトルコ企業が、創建当時の技法を使って行いました。2004年6月23日、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の悲しみの象徴であったスタリ・モストは、再び、町の象徴として蘇りました。そして、2005年ボスニア・ヘルツェゴビナ初の世界遺産として登録されました。スタリ・モストは、歴史的価値としてだけでなく、多民族・多文化の共生や和解の象徴として、世界中の人々の心に深く刻まれています。
(写真下)町の若者たちには橋から川に飛び込むのが伝統になっています。川は非常に冷たく、かなり危険なので、最も上手で訓練を積んでいる潜り手だけが挑むことができます。飛び込み大会は毎年夏に開催されています。
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