第31番札所 浄智寺
31番 金宝山 浄智寺 鎌倉33観音霊場第31番札所 鎌倉5山 鎌倉24地蔵:第12番 聖比丘地蔵 鎌倉13仏:第6番 弥勒菩薩(変成王、六・七日忌) 鎌倉江の島七福神 布袋尊 ・本尊:聖観世音菩薩 臨済宗円覚寺派 ・住所:鎌倉市山ノ内 ・ご詠歌:今日よりぞ 黄金の山に 入りにけり 清き悟りの 知恵をとりつつ ・由緒等:鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の3男である北条宗政の菩提を弔うために、弘安4年(1281年)に創建された。開基は宗政の子・北条師時としたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・北条時宗による創建である。開山は日本人僧の南州宏海が招かれるが、宏海は尊敬する宋出身の高僧兀庵普寧と導師の大休正念を開山にして自身は準開山になる。なお兀庵普寧は文永2年(1265年)に中国に帰国し、浄智寺開山の7年前に没している。 その後、高峰顕日や夢窓疎石らの名僧が住持し、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達した。元亨3年(1323年)の北条貞時13年忌には浄智寺からの参加僧衆は224人に達したと記録にあり、当時浄智寺の総人員は僧侶以外も加えると500人ほどに及んだとみられる。発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われる。 鎌倉幕府滅亡後も寺勢は衰えず、延文元年(1356年)には火災で創建時の伽藍を失うが、室町時代にもまだかなり大きな寺で、上杉禅秀の乱のあとの応永24年(1417年)に足利持氏が鎌倉に戻ったとき、まず浄智寺に入り2か月以上滞在した。また持氏の子・永寿王(後の足利成氏)が宝徳元年(1449年)に鎌倉に入ったときも浄智寺に滞在したなども寺の規模の大きさを示している。 しかし、15世紀半ばころから都市鎌倉そのものの衰亡と足並みをそろえて徐々に荒廃し、なお江戸時代末まで塔頭8院を維持したが、大正12年(1923年)の関東大震災でその大部分が倒壊し、今日の伽藍は概ね昭和になってから復興された。 ・雑感:東慶寺からも歩いてすぐの所にあります。趣のある楼門です。奥の方にいらっしゃる7福神の布袋様のお腹を皆が撫でるものだから黒ずんでいます。
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