第25番札所 浄光明寺
25番 泉谷山 浄光明寺 鎌倉33観音霊場第25番札所 相模21霊場 鎌倉24地蔵:第16番 綱引地蔵尊 第17番 矢拾地蔵尊 鎌倉13仏:第9番 阿閃如来(蓮上王、七回忌) 鎌倉6阿弥陀 第4番 宝冠阿弥陀如来 ・本尊:千手観世音菩薩 真言宗泉涌寺派 ・住所:鎌倉市扇ヶ谷2丁目 ・ご詠歌:ありがたや 泉が谷の 清水に 心の垢を 洗ふ諸人 ・由緒等:鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷、泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。寺伝によれば、建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった[1]。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが、定かでない。 永仁4年(1296年)の開山(真阿)譲状には北条時頼と長時が開基であると記されている。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)、36歳で死去し、浄光明寺に葬られ、以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏の菩提寺と位置づけられた。開山の真阿は浄土宗系の僧であるが、当寺は創建当初から兼学(複数の宗派が並存)の寺であり、3世の高恵(智庵和上)の時から四宗兼学となって近世末に至っている(「四宗」は必ずしも4つの宗派に限らず、真言、天台、浄土、華厳、禅、律を含む)。この高恵の時代、元弘3年(1333年)には後醍醐天皇から上総国山辺郡(千葉県東金市)と相模国波多野荘(神奈川県秦野市)の寺領を寄進されており、また同年には成良親王(なりよししんのう、後醍醐皇子)の祈願所ともなっている。 浄光明寺は中世を通じ、足利氏および鎌倉公方の帰依を受けている。すなわち、暦応元年(1338年)以降、足利尊氏および弟の足利直義より相模国金目郷(神奈川県平塚市)、上総国山辺郡(千葉県東金市)、伊豆国三津庄(静岡県沼津市)などの寺領の寄進を受けている。また、直義は康永3年(1344年)と観応2年(1351年)に仏舎利を寄進している。尊氏は、建武2年(1335年)、後醍醐天皇に叛旗をひるがえして挙兵する直前、天皇への謀反の意思がないことを示すため浄光明寺にて謹慎していたとも伝えられる。この当時の境内の様子は「浄光明寺敷地絵図」(後述)により具体的にわかる。 室町時代に入り、足利満兼(鎌倉公方)は、応永6年(1399年)、父・氏満と祖父・基氏の遺骨を分けて浄光明寺に安置し、以降、当寺は鎌倉公方の菩提寺となった。天正19年(1591年)には徳川家康より4貫800文が与えられている。 往時は10近い子院があったが、江戸時代に入ると伽藍は荒廃、本堂さえ失われる状態であったという。寛文8年(1668年)、僧侶の勧進、鶴岡八幡宮寺相承院元喬僧都の援助などを得て仏殿を再興、法灯は保たれた。子院に関しては、幕末には慈恩院を残すのみであったという。慈恩院は、足利直義が自ら殺害させた護良親王の鎮魂のために建立したもので、浄光明寺に現存する地蔵菩薩像(通称矢拾地蔵)は慈恩院に伝わったものという。 ・雑感:静かなお寺です。 |