22番 霊鷲山 感応院 極楽寺
鎌倉33観音霊場第22番札所
相模21霊場
鎌倉24地蔵:第20番 導地蔵尊 第21番 日影地蔵尊
鎌倉13仏:第12番 大日如来(拔苦王、十三回忌)
・本尊:如意輪観世音菩薩 真言律宗
・住所:鎌倉市極楽寺3丁目
・ご詠歌:法説く 鷲の御山を まの当たり 弥陀の御国に 入る心地して
・由緒等:永禄4年(1561年)成立の『極楽寺縁起』によれば、当時はもと深沢(現・鎌倉市西部)にあった念仏系の寺院(開山は正永和尚)を、正元元年(1259年)、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた現在地に移したものであるという。ここに極楽寺が建てられたのは、現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりする「地獄」ともいうべき場所になっていたためとの指摘がある[1]。北条重時は、北条義時(鎌倉幕府2代執権)の三男で、北条泰時(3代執権)の弟にあたる。重時は六波羅探題として17年間にわたり京都の最高責任者を務めた後に鎌倉に戻り、宝治元年(1247年)から鎌倉幕府の連署として5代執権北条時頼を補佐した。康元元年(1256年)には剃髪して仏門に入り、観覚と号している。弘長元年(1261年)に重時が没した後は、その子の北条長時(鎌倉幕府6代執権)ならびに北条業時が父の遺志を継いで、極楽寺の伽藍を整備したという。なお、『新編相模国風土記稿』には、寺の元の所在地を藤沢(神奈川県藤沢市)としている。また、『極楽寺由緒沿革書』という別の縁起には永久年間(1113 - 1118年)、僧勝覚の創建とするなど、寺の起源には諸説あって必ずしも明らかでない。重時は「極楽寺殿」と称され、その系統は極楽寺流と呼ばれた。
史書『吾妻鏡』には、弘長元年(1261年)4月、北条重時が時の将軍・宗尊親王を「極楽寺新造山荘」に招き、笠懸(馬上から的を射る競技)を行ったとの記事があり、この時点での極楽寺の存在と重時との関係が確認できる。重時は同じ弘長元年の11月に没した。
・雑感:コロナを理由に書置き方式にしているところが多いのに、こちらは御朱印帳持参の人のみ書くということで有名なお寺。お寺は朝8時から入山できるのに、御朱印は10時から受付開始ということでしばらく待つことに。静かで良いお寺です。
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