第7番札所 光触寺



7番 岩蔵山 光触寺

鎌倉33観音霊場第7番札所

鎌倉24地蔵 第5番 塩嘗地蔵尊

鎌倉6阿弥陀 頬焼阿弥陀如来

・本尊:聖観世音菩薩 時宗

・住所:鎌倉市十二所

・ご詠歌:闇の世を 照らす仏の 御光に 触るる人こそ 実にぞ嬉しき

・由緒等:光触寺に伝わる絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる僧が盗みの疑いをかけられ、頬に焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言う。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っていたという。

その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立し、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したと伝えられる。像を安置した須弥壇は足利持氏の寄進という。また、岩蔵寺は前述の阿弥陀如来像の由縁により火印堂とも呼ばれていた。

弘安元年(1278年)に岩蔵寺は現在地へと移ったとされ、その後3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名、一遍を開山に迎えて寺号の岩蔵を山号とし光触寺と改称したという。

寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間(1688年 - 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間(1854年 - 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には33代住持の大純により中興されている。

往時には境内に本堂や庫裏、山門のほか、六坊の塔頭や境内社を備えたが、前記の災害などによりいずれも荒廃し現存しない。近隣にある十二所神社も当寺の境内社の一つであったが、天保9年(1838年)に移転したという。

本堂には本尊の阿弥陀三尊像のほか、かつて大慈寺丈六堂の本尊であったという阿弥陀如来の仏頭や、稲荷神像、定朝による平安時代の作と伝わる木造の聖観音菩薩立像が安置されている。本尊阿弥陀三尊像(国の重要文化財)は、衣文の彫法などの点から、縁起に言う運慶作とは認めがたいが、鎌倉時代、13世紀前半の作とみられる。

山門は文化年間(1804年 - 1818年)に村民が建てたものとされ、当初は茅葺き屋根であったが、1923年(大正12年)に瓦葺に葺き替えられたという。

本堂前の堂に安置されている石造の地蔵菩薩像はもと県道側にあったといい、六浦(横浜市金沢区)の塩売りが県道を通る際に商売繁盛を祈願し塩を供えていったという。そうして帰りに再び立ち寄ると供えた塩が無くなっており、これは地蔵菩薩が塩を舐めたのだろうという逸話からこの地蔵菩薩像は塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と呼ばれている。

・雑感:「十二所」のバス停からすぐの所にあります。一遍上人さんの銅像がお迎えしてくれます。




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