第36番札所
・住所:千葉県成田市成田1-1
・号・院号・寺号:成田山 明王院 神護新勝寺(なりたさん みょうおういん じんごしんしょうじ)
・通称:成田さん・成田山新勝寺
・不動尊:成田不動尊
・童子:烏婆計童子
・ご詠歌:ありがたや 成田み山に まいるみは ごまのけむりに あうぞうれしき
・由緒等:成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1566年(永禄9年)頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、「秘宝特別公開」)が行われた。1703年(元禄16年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺になったが、塔頭寺院が1896年(明治29年)名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。 18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて、地域の民衆に対して、日本古来の伝統的思想の教化に積極的に努めた。1938年には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納、また真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した。(ウィッキペディアより)
・雑感:さすがは成田山。巨大です。参道も賑わっており、有名な鰻も混雑の中、食することが出来大満足です。御朱印は本堂で頂くもの(上段)、大塔でいただく36不動専用の朱印(下段)と両方いただきました。関東36不動は平成25年2月に大山寺にお参りしてスタートし、ここ成田で平成26年11月に満願するまで結構時間がかかってしまいました。とはいえどこも御朱印の受け入れ態勢が整っているので比較的お参りしやすい札所巡りだったです。色刷りお姿とかが出たらまた回ってもいいかなと思います。
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