第33番札所 那古



第33番札所
・住所:千葉県館山市那古1125
・山号・院号・寺号:補陀洛山 那古寺(ふだらくさん なごでら)
・通称:那古観音
・真言:オン バザラ タラマ キリク
・ご詠歌:補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺  岸うつ波を見るにつけても

・由緒等:元正天皇は、養老5(721)年の9月に突然の病に臥した。行基が勅命によって千手観音に祈願していると、本尊が壇上に現れ、安房国那古の浦にて日本の補陀落を祈るよう告げた。行基は安房国に向ったが、那古の浦の沖に大船が出現して妙音を奏でるとのことを耳にした。浦で行基が迎請の印を結ぶと、船は浜辺に近づき、中から毘沙門天が現れて香木を行基に与えたという。行基はその木で尊像を刻み、安置したところ、たちどころに天皇の病が平癒したため、勅願によって伽藍を建立したと伝えられている。現在、山上に古屋敷と呼ばれているところがあり、この遺跡だと考えられている。後に、慈覚大師が止住して練行し、さらに正治年間(1199~1201年)には秀円上人によって真言密教の霊場となった。
源頼朝が帰依して七堂伽藍を建立、また足利尊氏や里見義実も篤く信仰した。特に当山第二十一代の別当は里見義秀であり、二十三代は里見の熊石丸であるなど里見氏との深い関係で寺勢は大いに伸張した。徳川家康の頃には、鶴谷八幡宮の別当を兼ね、末寺十五寺、駕籠側八人衆、280石を領する大寺となった。しかし、元禄16(1703)年の大震災で堂塔が全壊。かつては山上にあったが、幕府は岡本兵衛を奉行とし、宝暦9(1759)年に場所を現在地である中腹に移して再建した。
明治維新の変革では寺領を失ったが、大正11年に一府二県より浄財を募り、本堂の修理が完了したものの、同12年の大震災で半壊。大正13年に信徒の努力で復旧し、現在に至っている。(現地パンフレットより)

・雑感:総距離1400キロに渡り、徒歩で周れば40日はかかると言われている坂東三十三観音の最後のお寺です。今回は阪急交通社のバスツアーにて10か月10回に分けて坂東を回らせて頂きましたが、無事結願を果たすことができ、朱印左上に結願印を頂きました。坂東は電車とバスだけでは回りきること困難と痛感しました。





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