毎月21日は弘法大師空海の縁日。三弘法めぐりは江戸中期にはじまる。京都では四国八十八ヵ所巡礼にいく人は出発前に無事を祈ってお参りし、帰ったら必ずお礼参りするしきたりがある。
菅笠を東寺で、金剛杖を仁和寺で、納札箱を神光院で授かり、道中の安全を祈願した後、お遍路に出発するという信仰です。江戸時代中期から昭和30年代までは行われてました。最近3カ寺が復活させ「京都三弘法霊場会」を結成しました。
第1番 東寺 御影堂
大師堂とも呼ばれている教王護国寺(東寺)の御影堂は弘法大師在世時の住房で、吉野朝時代の康暦2年(1380)に再建された歴史の古い建物で、国宝に指定されています。
蔀戸(しとみど)がはめられている寝殿風の建物で、単層入母屋造檜皮葺、正面7間、側面4間の大きさです。前堂、後堂、中門から成り、密教寺院住房の古い形式が伝えられているそうです。北面には鎌倉時代に作られた弘法大師坐像が祀られています。御影堂の主尊であるこの大師像は康勝(大仏師運慶の子)が鎌倉時代の天福2年(1233)に制作したもので国宝に指定されています。御影堂の南面には秘仏で国宝の不動明王と八幡神像が安置されています。
御影堂は弘法大師(空海)信仰の中心で、毎朝の生身供(しょうじんく)が過去より延々と続けられて営まれています。生身供とは生きている弘法大師に給仕する如きに食事を供える行事です。この後で一般信徒が朝参し、香煙が絶えることはありません。特に大師の縁日である毎月21日の弘法さんの日には多くの参詣者で賑わい、これを相手の露店の賑わいもよく知られています。
第2番 神光院
神光院は、1217(建保5)年に上賀茂神社の神職の神託により、大和国(現在の奈良県)から僧侶・慶円(けいえん)を招いて創建されました。そして真言宗弘法大師の霊場でもあることから、東寺、仁和寺と共に京都三大弘法として有名なお寺です。
弘法大師は42歳の時、ここ神光院で90日間の修行を行いました。修行を終えて寺を離れる時に人々との別れを惜しみ、「私を信じる者は老若男女を問わず、諸病災厄を免れるであろう」と言い、境内の池に映る自分の姿を見て木像を彫ったことで、厄除けの寺としても広く知られるようになりました。この弘法大師が自ら彫った木像は本堂に安置されています。
また神光院は昔、京都御所に奉納する瓦職人の宿に使われており、「瓦屋寺」とも呼ばれていました。その他境内には、明治時代の女流歌人である大田垣蓮月尼(おおたがきれんげつに)が晩年を過ごした茶所があり、彼女の歌碑も建てられています。
第3番 仁和寺
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となってから、皇室出身者が仁和寺の代々門跡(住職)を務め、平安?鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われました。そんな中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。
応仁の乱から約160年後の寛永11年(1634年)、ようやく再興の機会が訪れます。『仁和寺御伝』によれば、同年7月24日、仁和寺第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されるのです。さらには慶長度の御所造替とも重なり、御所から紫宸殿(現
金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることが出来たのです。
御影堂(Miedo )重要文化財:鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置します。御影堂は、慶長年間造営の内裏清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用しています。 約10m四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえます。
・雑感:平成26年は四国霊場開祖1200周年ということもあり、2回目の巡礼をすることに。前半を春の桜の頃、後半を秋の紅葉j時期と決めました。巡礼に先立ち、京都の三弘法を巡る風習があることを知り、せっかくなので行ってきました。道中交通安全祈願みたいなものでしょう。
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