所在地:大分県大分市荷揚町 アクセス:JR日豊本線大分駅〜バス 府内城は1597(慶長2)年、福原直高により築城が始められ、2年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代った早川長敏も1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の構造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長7)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1km、南北約1kmにおよぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。 荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかっての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中掘、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。 城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義の時に、非違をとがめられて断絶しました。代って1634(寛永11)年、壬生城(栃木県)から日根野吉明が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭が1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治4)年の廃藩置県まで、2万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間1743(寛保3)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は再建されませんでした。 1871(明治4)年11月大分県が成立、翌年城内に県庁が置れて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正10)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和37)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和41)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和21)年の米軍の大分空襲により焼失した5つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿をとりもどしました。 城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城址公園として市民の憩いの場になっています。(現地案内板より) 私的満足度「★★」:大分の中心街にあります。福岡から高速バスで何度か通いました。 |