所在地:福岡市中央区天神1-15-14
アクセス:地下鉄天神駅~徒歩
文化財:
当社は、文道の祖、学問の神として多くの人々に尊崇される、天神さま-菅原道真公をお奉りする神社です。道真公は承和12年(845)代々学問の家として朝廷にお仕えした菅原家にお生まれになりました。 幼名を阿呼(あこ)と申され、5歳の頃には、「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」という和歌をおつくりになり、11歳の時には「月夜に梅花をみる」という漢詩をおつくりになって、その才能は人々を驚かせました。このような天賦の才能をお持ちの上に幼い頃より大変学問に励まれましたので、18歳の時には文章生登用試験に合格され、早くも33歳で学者としては最高の文章博士になられたのでした。道真公の学才と誠実なお人柄は、人々の敬慕するところでしたが、とくに宇多天皇の篤い御信任を受けられ、ついに従二位右大臣という位にまで登られました。しかし、昌泰4年(901)1月25日、讒言により、突然「太宰権師に左遷」いいう勅が発せられたのです。2月1日、自邸の紅梅殿の梅の花に向かって、「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」という歌を詠み、追われるように都を後にされたのでした。長い流謫の旅の末、博多に上陸された時、清流に臨んで水鏡に姿を写してご覧になり「私の魂は長くこの地に留まり、後世無実の罪に苦しむ人の守り神となろう。」と仰せられたという御由緒により、その地に社殿を造立し、水鏡天神、また姿見天神とも称しました。その清流を四十川といいます。この川は庄村-今の中央区今泉、薬院あたりを流れ、姿見橋という橋もかかっており、当初神社もその付近に奉られておりましたが、慶長17年(1612)筑前藩主黒田長政公が、築城の際、庄村から福岡城の鬼門にあたる現在地に奉遷し、福岡城全体の守護としました。その後、寛永18年(1641)二代藩主忠之公が社殿を再建して今日に至っております。(現地案内版より)
私的満足度「★★」:九州最大の繁華街「天神」の地名は、天神様を祀るこの神社に由来。単身赴任中の職場の傍にあった小さな神社です。
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