所在地:福岡県 アクセス:西鉄大牟田線大宰府駅〜タクシー 文化財:国特別史跡 「日本書紀」によると、西暦660年(1,346年前)に朝鮮半島の百済が、唐・新羅から攻め込まれたので、日本に救援軍の派遣を要請してきた。これに応じた大和朝廷の斉明天皇が、皇太子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)に救援軍の指揮を命じた。天智2年(西暦663年)9月、百済のために出兵した救援軍は、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、朝鮮半島から撤退した。そのため連合軍が海を渡って攻め込んでくることを恐れ、博多湾側からの侵攻に備え、その翌年に大宰府(現在の都府楼跡)(歴史上の地名は太→大を使用)防衛のための施設として水城(全長1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土による土塁で、博多湾側に幅60メートルの濠があった。)を築き、西暦665年に百済亡命貴族の指揮下で大野山全体を城とする朝鮮式山城、大野城を築造した。守りやすく攻められにくい山の地形を巧みに利用して、山の尾根に沿って土塁を築き、谷には石垣を築き、総延長は8キロメートルにおよんだ。その内側には7つの礎石群に別れ、全体で70もの建物やいくつかの井戸を設け、水城が突破されたときは、大野城に登って立てこもり長期間戦えるよう食料や、武器を保管していた。 この大野城の築城と併せて、有明海側からの侵攻に備え、基肄城(きいじょう)(佐賀県基山町)が造られた。(大野城市HPより) 私的満足度「★★」:ちょびちょびと石垣などが残ってます。何と言っても7世紀の遺跡です。 |