住所;高知県高知市長浜字城山
アクセス;JR高知駅〜バス
築城年代は定かではないが本山氏によって築かれたと云われる。 城主は本山茂宗の子大窪美作守と伝えられる。
永禄3年(1560年)長宗我部国親は長浜城を奇襲してこれを落とし、それまで婚姻関係にあり小康状態を保っていた長宗我部氏と本山氏との争いに発展することとなる。
この長浜城の奇襲には伝承があり、対岸にある長宗我部氏の種崎城にいた福富右馬允というものが種崎城で火を発した咎によって放逐された。右馬允は長浜へ逃れて大窪美作守に仕えることとなり、築城技術に長けていた右馬允は長浜城の工事を手掛けていた。 ある時、長宗我部氏が大津から種崎へ兵糧を積んだ船を出した所、本山氏がこれを襲って兵糧を奪う事件があった。国親はこれを口実として長浜城攻略の奇策を巡らせる。国親は種崎城代に長浜城にいる福富右馬允を呼び出して城内より手引きさせるよう命じた。罪を許して帰参を許そうと持ちかけられると、右馬允は喜んで引き受けた。永禄3年(1560年)5月26日の夜、種崎にいた長宗我部軍は密かに渡海し長浜城に攻め込んだ。長浜城主大窪美作守はこの奇襲に驚き城を脱して朝倉城の本山茂辰に援軍を要請した。茂辰は二千五百余りの兵を率いて長浜城に向かい、長宗我部国親は一千余りの兵をこれを迎え撃った。この戦いが初陣であった長宗我部元親は目覚しい働きを見せ本山氏は浦戸城へ逃れた。長宗我部軍もこれを追って浦戸城へ押し寄せたが、長宗我部国親が病に倒れ岡豊城に引き上げた。この時、長浜城は破却されたという。(現地掲示板より)
私的満足度「★」:四国霊場三十三番札所雪蹊寺の北の山に築かれていた。雪蹊寺と秦神社(写真上)に長浜城の案内板があり、長宗我部信親の墓が残っている。
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