住所:愛媛県松山市恵原町
アクセス:伊予鉄道松山市駅下車〜バス
文化財:県指定史跡
この城の明確な築城年代は不明だが、「忽那一族軍忠次第」に、建武2(1335)年に、忽那氏と北朝方の大森氏が会原城で戦った事が記されている事から、築城年代はそれ以前に遡る事ができる。その後、この城は、後に河野18将の一家となる平岡氏の居城となった。
戦国末期、平岡房実が城主の頃になると、主家河野家の勢力が、和田氏・大野氏の離反や、家臣の内紛や相次ぐ離反で衰凋し、土佐の長宗我部氏・豊後大友氏の勢力が、隙あらば伊予に侵攻しようと企てていた。
そんな中、平岡氏は主家に忠節を尽くし、各地を転戦、阿波の三好氏を撃退すると共に、一条氏に与して離反した、地蔵ヶ嶽城主宇都宮氏とも戦い撃破した。
平岡通資が城主の元亀3(1572)年、阿波の三好氏の侵攻があり、これを迎撃した。
天正7(1579)年、土佐の長宗我部元親が侵攻してくると、平岡氏はこれを迎撃、撃退している。
天正13(1585)年、豊臣秀吉が四国征伐に乗り出すと、平岡通倚が主家河野氏の本拠、湯築城を守備していたが、河野氏が降伏したため、平岡氏もこれに従い荏原城を開城、荏原城は廃城となった。慶長5(1600)年、関が原の合戦が勃発すると、領主加藤嘉明が東軍に荷担したため、平岡直房がお家復興を策し、一揆を起こした。
直房は、平岡氏累代の居城である荏原城に籠城、加藤軍を迎え撃つが、加藤軍によって一揆は鎮圧された。(『現地案内板』より)。
私的満足度「★★」:別格第9番文殊院の傍にあったので寄ってみました。四隅の土塁が高く盛られており、櫓台跡であったと思われる。
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