所在地:山口県下関市長府宮崎町 アクセス:JR山陽本線長府駅〜タクシー 永禄12年、内藤隆春の臣勝間田盛長がこの城に居たとの記録がある。 このことから、内藤氏が築き、勝間田氏が城番であったと考えられている。慶長5年、関ヶ原で敗れた広島城主毛利輝元は、防長2ヶ国36万石に減封となり萩城を築いて移った。これに伴い、周防山口178,000石を領していた毛利秀元(輝元養子、元就四男穂田元清の長男)は、36,200石を長門長府の地に与えられた。慶長7年、秀元は長府雄山に櫛崎城を築く。しかし、元和元年の一国一城令によって、わずか13年で廃城となった。その後、秀元は城の一部に居館を構え陣屋とした。長府毛利氏は、毛利三支藩(長府・徳山・清末)の筆頭として、14代続き明治に至った。 江戸幕末の文久3年、長府藩は外国船に砲撃を加え攘夷に踏み切った。これが馬間戦争の始まりである。 外国船の艦砲射撃に備え、新たな関門海峡防衛の拠点として、勝山御殿を築いて居を移した。 私的満足度「★」:史跡を見つけるのにちょっと苦労しましたが、良い具合に残ってます。 |