住所;倉敷市本町(倉敷アイビースクエア内)
アクセス;JR倉敷駅〜徒歩
古来この附近一帯は「小野が城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡といわれる。慶長五年(1600)関が原の合戦で勝利を得てから、この地は徳川幕府の直領(天領)となった。
慶長十九年(1614)大阪冬の陣に備中国総代官小堀遠州は幕府の命をうけ、兵糧米十数万石を倉敷湊から大阪に積み出すため、ここに屋敷を構えて陣屋とした。それ以来倉敷湊は急速な発展を遂げ、寛永十九年(1642)に陣屋は倉敷代官所となり、初代幕府代官米倉平太夫が赴任してきた。
それより明治維新にいたる二百余年間、倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の天領を支配する枢府となった。
天保五年(1834)には代官所北側に倉敷教諭所が建てられ明倫館と名付けられた。それ以来、この地は文教の中心地となった。幕末になって尊皇佐幕で天下が物情騒然のとき、慶応二年(1866)長州騎兵隊を脱走した一味約百名は、倉敷代官所および浅尾藩(総社市)を襲撃し世にいう倉敷浅尾騒動を起こした。このため代官所は灰燼に帰し焼野が原となった。明治の維新政府は、代官所跡に倉敷県庁を置いたが、明治四年倉敷県が廃止されてからは放置されたままになっていた。その後地元の先覚者達によって、明治二十一年三月九日代官所跡に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)が創設され、紡績工場の汽笛が鳴り響いた。以来、倉敷紡績の隆盛は倉敷の発展に寄与するところとなった。
倉敷紡績では、この地が古くより倉敷発展の中心地であるのみならず、また、会社発祥の由緒ある地であることにもかんがみて、記念保存地区に指定し、この地一帯が長く伝え残されることを希念している。(現地案内板等より)
私的満足度「★」:倉敷アイビースクエアの入り口すぐ脇に目印として代官所跡の標識と濠跡がありますが、当時の面影はありません。
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