31鳥取県 米子城

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所在地:鳥取県米子市久米町
アクセス:JR山陰本線米子駅〜バス
文化財:国史跡

 米子城は、応仁から文明年間(1467年から1487年)に、山名宗之(やまなむねゆき)によって砦として飯山(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられます。文献上は、「出雲私史」に文明2年(1470年)に初めて記述がみられます。
現在、「城山」と呼ばれている湊山(みなとやま)の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ) が天正19年(1591年)に築城を開始しました。しかし、完成した城を見ることなく、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなりました。吉川家文書「戸田幸太夫覚書」によると、それまでにほぼ7割、築城されていたとあります。
慶長6年(1601年)、伯耆国18万石の領主として 中村一忠(なかむらかずただ)が封せられ、慶長7年(1602年)ごろ、米子城は完成したといわれています。
慶長14年(1609年)に一忠が急死、中村氏が断絶し、翌年に 会見・汗入(あいみ・あせり)6万石の領主として加藤貞泰(かとうさだやす)が入城しました。この後、近江聖人・中江藤樹(なかえとうじゅ)も米子にやって来ました。
元和3年(1617年)、加藤氏は伊予大洲(いよおおず)へ国替えとなり、因伯領主 池田光政(いけだみつまさ)の一族の池田由之(いけだよしゆき)が米子城預かり3万2千石となります。
寛永9年(1632年)には、池田光仲(いけだみつなか)が因伯領主となり、家老の荒尾成利(あらおなりとし)が米子城預かり1万5千石となりました。以後、明治2年(1869年)まで、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。
明治2年、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。そして明治6年(1873年)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなります。(米子市HPより)

私的満足度「★★★」:それほどの高さで無かったので珍しく徒歩で頂上を目指す。そこには素晴らしい景色が待ってました。石垣と大山の取り合わせ、振り向けば中海と境港方面を臨むことが出来ます。


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