30和歌山県 雑賀城



所在地:和歌山県和歌山市和歌浦中3-1-31「城跡山公園(津屋公園)」

アクセス:JR和歌山駅〜バス

文化財:

雑賀城は和歌山県和歌山市和歌浦付近にあったお城で別名「妙見山城」とも呼ばれている。

鉄砲衆で有名な雑賀孫一の父「鈴木佐大夫(雑賀重意)」が妙見山山頂付近の千畳敷(台状地)に居館を築いたのが始まりである。

この城を中心に鉄砲集団雑賀党は城下町を形成し石高にして雑賀7万石とも言われた。雑賀衆といっても雑賀地方に盤踞するいくつもの集団により形成されており、孫一(重秀)はその代表であった。

織田信長と本願寺顕如との間で戦が勃発すると孫一は一族を引き連れて大坂本願寺へ入城し、織田軍を散々苦しめた。そこで信長は雑賀党を滅ぼすことが先決と判断し、雑賀党討伐の軍を発する。

しかし、鈴木家の当主となっていた孫一が紀ノ川に壺を敷くなどして、織田家が混乱する中、鉄砲による一斉攻撃にて織田軍を撃退することに成功した。その後も信長は大軍勢にて雑賀の庄へ攻撃を仕掛け、ついに雑賀一党は降伏する。降伏後は織田信長に接近していったと伝えられている。

信長が明智光秀の謀反により本能寺の変により没すると、光秀を討った豊臣秀吉に接近し、大坂で暮らした。

豊臣秀吉が全国制覇をもくろむ中、雑賀党は織田信雄(信長の二男)・徳川家康らと連携して摂津泉へ進撃している。一方、孫一は秀吉軍に属し参戦したようである。天正13年の秀吉が雑賀党の主城「太田城」を攻める(紀州征伐)と降伏勧告の調停役を務めたと言われている。

その後の孫一の消息は全く不明であり、諸説ある。なお、現在の雑賀城跡はその遺構を残しておらず「城跡山公園(津屋公園)」として整備されている。(日本の歴史ガイドHPより)

私的満足度「★」:事前にお城サイトで遺構は何もないとの情報を得ていたのですが、やはり公園の名前以外何もありませんでした。




目次へもどる

直線上に配置