30和歌山県 藤白神社



所在地:和歌山県海南市藤白448番地

アクセス:海南駅〜徒歩

文化財:国指定史跡

熊野古道「藤白坂」の入口、海南市を眼下に、遠く和歌の浦をみはるかす太古さながらの楠の大樹に擁かれた当社の由緒は古く、斉明天皇が牟婁の湯(白浜湯崎温泉)に行幸の御時、神祠を創建されたという。

そのゆかりで19歳という若い命を藤白坂に散らした(『日本書紀』斉明天皇紀)万葉の悲劇の貴公子、有間皇子神社を祀り、毎年11月11日に有間皇子まつりを斎行している。

聖武天皇が玉津島行幸に際し、当社に僧行基を参らせ、熊野三山に皇子誕生を祈願させたところ、高野皇女御誕生、よって御母光明皇后は神域を広め整え、三山の御祭神を勧請しここを末代皇妃夫人の熊野遙拝所と定められたことから、子授け、安産、子育ての守護神として崇められてきた。

境内の千年楠を子守楠神社(熊野杼樟日命)として祀り、古来畿内各地から子が生まれた時、祈願して、楠・藤・熊の名を受けると長命して出世するといわれた。

紀州が生んだ巨人、南方熊楠もその一人である。

孝謙天皇玉津島行幸の際は、熊野広浜供奉し、祖神である当社に詣で「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号した。

以来、「藤白王子」、或は「藤白若一王子権現社」と呼ばれ、「藤代」とも表記された。

平安から鎌倉にかけての時代、熊野信仰が高まる中で、熊野一の鳥居として熊野九十九王子中最も格式の高い五躰王子の一となり、熊野聖域への入口、門として祓戸王子を鳥居の近くに設けた。

歴代上皇法皇の熊野御幸は延べ140回にも及ぶが、当社に必ず休泊され、特別な催事が行われた。

『吉記(藤原経房)』承安4(1174)年9月25日の条で「藤白王子に於て里神楽を行い 白米を給ふ 宝前信心殊に凝らす 感応の甚だしきなり」とあり、藤原定家は建仁元(1201)年『後鳥羽院熊野御幸記』10月8日に祓戸王子から御所へ3町ばかりの小宅泊、翌9日「天晴 朝出立頗る遅々の間 王子御前に於て御経供養等有と云々 白拍子の間 雑人多く立隔て路無し 強に参る能はず 逐電し藤代坂を攀じ昇る 五躰王子 相撲等ありと云々」と記し、同日、藤代王子和歌会、詠二首倭歌(題深山紅葉 海辺冬月)の後鳥羽院の詠草は国宝「熊野懐紙」として残り、境内に歌塚と歌碑が建つ。

また『頼資卿熊野参詣記』健保4(1216)年3月13日の条で「申の刻 藤代神主宅に著く 望海の窓あり 自然日想観を凝らす」とか『修明門院熊野御幸記』承4(1210)年4月25日条は「藤代王子に参御す 五躰王子に依り御先達已下馴子舞あり 但御神楽 本社八女八人云々」と巫女が置かれていたのもわかる。

藤白鈴木氏の発祥の地として、県指定史跡の鈴木旧邸庭園とともに、藤白王子権現本堂に祀る「熊野三所権現本地仏(熊野本宮の阿弥陀如来・熊野速玉の薬師如来・熊野那智山の千手観音菩薩・藤白王子の十一面観音菩薩)」は熊野路に唯一残る本地仏として県から文化財に指定され、神仏霊場にふさわしく当時の面影を今に伝えている。(和歌山県神社庁HPより)

私的満足度「★★」:普通の神社を想像してやってきたのですが、熊野古道紀州道の「王子」でした。神社所有の鈴木屋敷とともに海南駅のレンタルサイクルで訪問。





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