住所;奈良県奈良市柳生町
アクセス;JR奈良駅〜バス
文化財:
柳生氏の遠祖は菅原氏支流で、大和添上郡の豪族として、南北朝期には柳生永珍が活躍している。
騒乱状態に陥った大和において、柳生氏は柳生の国人として根をおろしていた。この頃、柳生宗厳(石舟斎)は新陰流開祖上泉伊勢守信綱と出会い、師事する。
研鑽を重ね“無刀取り”を会得した宗厳は信綱より新陰流の印可状を得て、柳生新陰流を創設する。 1594(文禄3)年、子の宗矩とともに徳川家康に仕えた宗厳は、その剣術指南役に請われたが、老齢を理由に辞退し、代わりに五男の宗矩を推挙した。宗厳は後に柳生に500石の所領を受けた。
家康に仕えた宗矩は“関が原の戦い”の功により父の旧領柳生庄に2000石を与えられる。その後、2代将軍秀忠、3代将軍家光の剣術師範役となり、江戸柳生の地位を確立する。1632(寛永9)年、初代の幕府大目付となり、諸大名の監視を任とする。
1636年の加増で計1万石を受けて大名に列し、大和国柳生藩を立藩。その後、1万2千5百石を領した。
宗矩の死後、1万2500石の所領は、長男の柳生三巌(十兵衛)に8300石、三男の柳生宗冬に4200石と分知されたため、柳生氏は大名から旗本となった。三巌の死後、宗冬がその家督と遺領を引き継いだため、再び万石を領する大名となった。
なお、柳生陣屋は、1642(寛永19)に宗矩が築き、3代宗冬が増築して完成させ、藩祖宗矩以来13代続いて明治に至った。(現地案内板等より)
私的満足度「★★」:奈良駅からてくてくと、バスで1時間程で到着です。バスは1日5本しかないので帰りの時間を確認して散策します。陣屋跡には庭園の跡らしきものもあり、もっと整備されることを臨みます。
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