29奈良県 多聞城

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住所;奈良県奈良市法蓮町1416−1
アクセス;JR奈良駅〜バス
文化財:

永禄3年(1560)或いは10年(1567)、松永久秀により築城された。久秀は下剋上の風潮のなかで梟雄、奸物の名をほしいままにした。その出自は定かではないが、これまた梟雄といわれる三好長慶の家臣となり頭角を現した。
 世に久秀の3悪事というものがある。長慶の子の毒殺、足利将軍義輝の暗殺、東大寺大仏殿焼き打ちである。こうして久秀は主家三好氏をしのぐ権勢を獲得していった。
 久秀は台頭の過程で長慶により大和(奈良県)を与えられ、大和の中心奈良を押さえるために佐保山に多聞城を築いた。その城は豪壮な御殿が建ち、塁堡を築き、大堀に多数の櫓があったという。櫓には4階櫓もあったという。塁上には長屋造りの櫓を設け、これが多聞櫓の名称の始まりである。
 久秀は、永禄11年(1568)入京した織田信長の勢いを見て取ると、素早く信長に下り、信長の力を背景に一時期大和国内の制圧に成功するが、元亀2年(1571)には筒井順慶との決戦に大敗した。その順慶も信長に服属すると、久秀は反信長戦線に加担したが、失敗し、天正元年(1574)信長に攻められ開城した。
 久秀は、天正5年(1578)信貴山城に拠って信長に再び背いたが、衆寡敵せず、子の久通とともに自刃した。10月10日のことであった。奇しくもこの日はかつて大仏殿を焼き打ちした日であった。(日本城郭大事典(新人物往来社刊)等より)

私的満足度「★」:奈良市立若草中学校になっています。学校からの奈良市街の眺めはさすがに良好。遺構は認められず。



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