所在地:奈良県大和郡山市城内町 アクセス:近鉄吉野線壺阪山駅〜徒歩 文化財::国史跡 高取城は、今を溯ること約670年前、中世南北朝時代、大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、標高583mの高取山の頂に砦のような城を築いたのがその始めと言われている。山頂を引きならして曲輪(くるわ:城・砦など、一定の区域の周囲に築いた土や石のかこい《広辞苑》)をつくる。尾根筋に沿って幾段もの曲輪が連なり、要所要所に掘割がつくられ、守りとなっている。恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓・天守もない、自然の地形に多少の工作を加え敵を防ぐ形態の城を掻揚げ城(かきあげじろ)と呼ぶ。吉野方面との連携をはかることが当時の使命であり、非常の場合、軍事権をもつ惣領が一族・郎党を引き具し、ここにたてこもるのである。 1585年(天正13年)大和国郡山城主 豊臣秀長の重臣 本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、天守閣・石塁など本格的な築城が進められた。これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されていたもので、最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。1640年(寛永17年)幕府大番頭 植村家政が高取藩主となり、以後14代228年、植村家が藩主となる。時代が進み、世が泰平になるにつれて山上の生活が不便となり、城下町に下屋敷、即ち藩主の居住並びに政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。下屋敷は、はじめ宗泉寺の位置にあったとも言われ、後に下子島村のうち、土佐町に近い場所に移された。天正期以後の整備・拡張により高取城は「芙蓉城(ふようじょう)」とも言われ、『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われた。 明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。大和の国の郡山、高取の2城も廃毀となった。高取城は、明治6年入札により、詳細は残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却されたと思われる。ただ人里離れた山頂であるため、その綱張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年に国の史跡に指定されている。(高取町HPより) 私的満足度「★★」:さすがは日本三山城の一つです。車で山頂側まで行けるところが良いですね。下りは駅まで歩きましたが結構ありました。 |