住所;奈良県奈良市柳生町
アクセス;JR奈良駅〜バス
文化財:
柳生城が文献で初めて登場するのは天文13年(1544)で、筒井順昭に対して山中衆が抵抗をし、柳生氏も同調、総勢1万人の軍勢で城を攻められた出来事でした。水の手をおさえられ、落城してしまいます。
芳徳寺近くの石碑に「石舟斎塁城」と記されています。そのことからも分かるように、この城のころの柳生氏は柳生石舟(宗厳)<1529?〜1606>の時期にあたります。先程も述べました1544年に、筒井氏の軍勢に父の家厳と抵抗しますが、屈します。そして、筒井氏麾下となります。筒井氏は順昭が死去し順慶が継ぎますが、松永久秀の大和侵攻が始まり、筒井氏が弱体化すると松永氏へと鞍替えします。以後、松永方の猛将として各地戦場におもむきます。しかし後、久秀は信長との対立で力を無くし、1571年以後、柳生の里に逼塞してしまいます。
宗厳は柳生新陰流の祖としても知られますが、上野国(群馬県)の新陰流の創始、上泉信綱との出会いがありました。柳生の里に居付いた信綱は新陰流の技を柳生一族に伝え、その技が、家康に注目され、徳川家の剣術指南役として柳生の命脈をつなぎとめることになるのです。一時は傾きかけた家運を立て直り、自身が老齢のため、家康に息子宗矩を推挙して、その宗矩は柳生藩の礎を築きました。(日本城郭大事典(新人物往来社刊)等より)
私的満足度「★」:柳生一族の墓がある芳徳寺の脇から登城できます。少し遺構があるそうですが、前日の雪がまだ残っていたこともあり登城せず。
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