所在地:姫路城天守閣6階(最上階)
アクセス:姫路駅から徒歩
この長壁神社は、現在姫路市内に3ヶ所ある。大天守最上層、播磨総社境内、旧城下町の立町の3つである。それぞれについて由来を説明してみよう。長壁神は、もともとは刑部(おさかべ)神と表記され、姫路城が建てられる前から姫山にまつられていた。しかし、先に触れたように、天正8~9(1580~81)年の羽柴秀吉による姫路城築城の際に、いったん城下の町はずれに移された後、播磨総社の境内に摂社(せっしゃ)としてまつられるようになっていた。
そして、輝政の病が契機となって、再び姫山の上にまつりなおされることになった。その場所は、城内北東部(城門の名前で言うと、とノ二の門外)であったと見られる。しかしその後、松平氏が姫路藩主となった寛永16(1639)年に再び総社へ戻り、慶安2(1649)年に藩主榊原氏があらためて城内の社殿を再興したとされている。また、この後も総社境内にも長壁神は残り続け、城内と総社境内の2ヶ所の長壁神社が併存していた。
明治になると、城内を陸軍が使用するようになったため、城内の長壁神社は、1879(明治12)年に元塩町(もとしおまち)の総社境内地に移転した。1913(大正2)年には、江戸時代を通して総社境内に残り続けていた長壁神社も、この城内からやってきた長壁神社に合祀(ごうし)され、さらに1927(昭和2)年の国道拡幅にともなって現在の位置に移転したのが、総社境内の長壁神社である。
一方、現在の大天守最上層の社殿は、1879年に城内長壁神社が総社境内地に移転した後に、あらためてまつられるようになったものとされている。(姫路城HPより)
私的満足度「★★」:長壁神社(おさかべじんじゃ・刑部大神・刑部神社・小刑部宮)といろいろな表記のしかたがある神社です。ここを参拝するためには大天守の頂上まで登城する必要があり、それなりに参拝困難な神社です。
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