住所:姫路市総社本町190 アクセス:姫路駅から徒歩 当社は、総社さん、総社の神様と呼ばれていますが、正式な神社名は射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)と云い、射 楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を御祭神としてお祀りしています。 境内には、総社の名の由来になっている播磨国内の大小明神をはじめ、摂末社の神々を合わせ祀っています。 欽明天皇25年(564)6月11日に影向があり、 飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられています。 また、播磨国風土記に「因達と称ふは 息長帯比売命(中略) 渡りましし時 御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す 故 神のみ名に因りて 里の名と為す」と記されているところから、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたことがわかります。 二神をいつ合座したのかについては、明確な資料が存在しませんが、927年に編纂された延喜式神明帳に「射楯兵主神社二座」とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていました。 その後、安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨国総社」と称し、三日潮「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになりました。 また、歴代の守護職・城主からも「家の氏宮」・「姫路城鎮護の社」として篤い崇敬を仰いで参りました。 天正9年(1581)、秀吉の姫路城大築城の際に、現在地に移転遷座してからは、池田輝政公からは表参道入り口の中堀に架かる石造りの太鼓橋(鳥居先橋)を、本田忠政公からは総社総神殿や玉垣の造営がなされ、榊原忠次公からは舞殿の再興や大鳥居(県重文)が寄進される等数々の宝物が奉献されました。 その貴重な歴史・文化財の多くは、昭和20年、先の大戦の戦禍によって烏有と帰してしまいました。昭和23年、市民により復興奉賛会が結成され、昭和40年に昭和の大復興を達成し、また、平成の大造営を氏子・崇敬者と共に行い、多くのご奉賛を賜って、平成19年総社御門を復興しました。(射楯兵主神社HPより) 私的満足度「★★」:「いたてひょうず」神社と読みます。総社なだけあって各種神様が大量にいます。出来たばかりの「総社御門」が素敵な神社でした。 |