住所:京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山 アクセス:JR山崎駅〜バス 古来、大山崎は軍事・交通上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきた。その要の位置を示している山が標高270.4mの天王山である。天王山は摂津国と山城国の境をなし、山と川との間は最も狭い部分で200mたらずしかない。室町時代の応仁・文明の乱の時に、地域的な重要性から天王山に城が築かれ、たびたび合戦が行われた。 やがて最も知られている天下分け目の天王山「山崎合戦」が天正10年(1582)6月13日、夕刻4時頃山頂、山麓で明智光秀軍、羽柴秀吉軍との間で繰り広げられた。合戦は明智軍1.6万人、羽柴軍4万人が激突し、わずか2時間程度で決着が付き、羽柴軍の一方的な勝利に終わった。秀吉は味方の士気を高めるため、天王山の老松に千成ひょうたんの旗印を掲げ、戦局に大きな影響を与えた(天王山の7合目辺りにあるこの松は「旗立松」と呼ばれている)。敗北を知った光秀は本陣背後の勝竜寺城に一時退去した後、僅かな手勢を伴って近江へ逃れていった。山丘陵を越えた小栗栖(現京都市伏見区)で土民の襲撃を受け、光秀は殺害された。合戦直後、秀吉は天下統一を目指すため天王山山頂に天守閣を備えた城を築城し、大山崎を城下町とした。城は財寺城とも呼ばれ、麓の宝寺(宝積寺)まで含めた大規模な城だったようである。山崎合戦の翌年から大坂城の築城が始まり、秀吉も大坂城に移り、城は1年余りで壊された。(現地案内板より) 「宝積寺」;一般には宝寺の名で知られており、本町に現存する寺院の中でも最も古い歴史を誇ります。寺伝によりますと奈良時代に聖武天の勅願寺として僧行基が開創したと伝え、その後長徳年間(995〜999)寂照が中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり、寺運は大いに盛り上がりました。山崎合戦の折には羽柴秀吉が一時当寺を陣所として、合戦後宝寺も山崎城の一部として利用されたと伝えられています。(現地案内板より) 写真下:宝積寺三重塔 私的満足度「★」:あんまり遺構はないです。 |