26京都府 對龍山荘 庭園

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住所;京都市左京区南禅寺福地町
アクセス;JR京都駅〜バス
作庭・作者:池泉廻遊式、小川治兵衛
文化財:国指定名勝

薩摩出身の実業家・伊集院兼常の別荘として建てられた。のち明治期小川治兵衛作庭の市田別邸となり、南禅寺/瑞龍山に対する事から名付けられる。昭和63年度に文部科学省により国の名勝に指定された。持ち主である和装商社の市田は、公開の直後に東京の不動産投資・運用会社シーブイーシービジネスに25億円で売却した。現状保存のまま非公開が続く。(京都の紅葉HPより)
明治時代の庭園は、江戸中期から起こった自然風景主義的な庭園の集大成の時代でもある。特に京都の小川治兵衛(植治)の創作した庭園は、ここに紹介している対流山荘以外にも、南禅寺界隈に多数ある。たとえば山県有朋の別荘であった無燐庵や野村碧雲荘、細川別邸、など南禅寺界隈のいわゆる高級住宅地に散在している。この植治の作品は独自の世界を築いており、これはこれで非常に技術的にも傑出したものを持っているが、後にこの作風を取り入れたものばかりが日本中にあふれ、そして未だにそこから決別出来ていないのは、日本庭園の創作意欲に対する堕落でもある。
この庭園の敷地そのものは、もともと明治30年頃は寺院の敷地であったが、そのころ、鹿児島の伊集院兼常が、ここに草居を立てたのが始まりである。伊集院家の頃は、すでに下部に池泉が拵えられていたが、そのころにはまだ、現在のように池泉の中島や、滝組はなかったのである。その後、一時清水某氏がその後を譲り受け、さらに明治35年(1902)、初代市田弥一郎氏の所有となってから、現在に至っている。現存している建築や庭園は、二代市田弥一郎氏の時代、すなわち、明治40年に大改造を行ったものが残されているわけであるが、ただ茶席は、伊集院家時代からのものが残されており、そのため、茶席から北部のものは、そのほとんどが明治30年以前の作庭であったのを、明治40年以後、大改造を行ったのである。このように下部は比較的速く作庭され、さらにその後から聚遠亭庭園が作庭されたと見ていいであろう。作風は自然主義的なもので、借景を取り入れながら作庭されている。(市田株式会社資料より)


私的満足度「―」:ここが特別公開されたら、間違いなく駆けつけることでしょう。



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