26京都府 修学院離宮

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所在地:京都府京都市左京区修学院室町
アクセス:JR京都駅〜バス
形式・作庭:池泉回遊式庭園
文化財:

 桂離宮と並ぶ江戸初期の代表的な山荘である修学院離宮は,寛永6(1629)年に退位した後水尾上皇が企画した洛北の地にある広大な山荘のことです。当地には以前から上皇の茶屋である隣雲亭がありましたが,明暦元(1655)年,東福門院とともにこの近くに住む円照寺尼宮(上皇の第一皇女)の草庵に御幸した際,改めてそのすぐれた風光に魅せられ,翌2年から大規模な山荘造営に着手し,万治2(1659)年春に一応の完成をみます。現在離宮は上・中・下の御茶屋から構成されており,上御茶屋はこの隣雲亭を中心に計画され,広大な苑池(浴龍池<よくりゅうち>)と中島をつくり,その中島には窮邃亭(きゅうすいてい)があります。また,池には中島に渡る楓橋・土橋,中島と万松塢(ばんしょうう,大きな2個の石をいただく島)を結ぶ千歳橋が架けられ,隣雲亭からは,遠く鞍馬・貴船・岩倉・松ヶ崎・愛宕の山々を背景に,京都の市街が一望できます。一方,山麓に営まれた下御茶屋は,上皇が御幸の際に御座所とした使用した寿月観(じゅげつかん)を中心に,茶室蔵六庵(ぞうろくあん)・御清所(台所)などの付属建物を配しています。 また,中御茶屋は楽只軒(らくしけん)・客殿(きゃくでん)などからなり,後水尾上皇の没後,第八皇女朱宮(あけのみや)光子内親王(てるこないしんのう)によって建立された尼門跡寺院林丘寺(りんきゅうじ,現左京区修学院林ノ脇)が隣接しています。
 窮邃亭(きゅうすいてい,上御茶屋) 窮邃亭は,三間四方の宝形造柿葺の建物で,東と南は深い土庇が,池に面した西と北には肘掛窓がそれぞれ取り付けられています。この建物は上・中・下御茶屋の中で,造営されてから今日まで建て替えられていない唯一の建物でありますが,各部の材料はずいぶん取り替えられて新しくなっています。南の土間庇の軒下には,後水尾上皇宸筆による「窮邃」の額が懸かっています。
 寿月観(じゅげつかん,下御茶屋) 寿月観は,数寄屋風書院造,起り屋根(むくりやね)柿葺の建物で,庭園に面してL字型に部屋が配置されています。これは室内からの眺めと同時に,庭園から見た場合の建物の姿が考慮されたためです。庭園に面した側は全面腰障子で,まわりに濡縁(ぬれえん)がめぐらされた開放的な外観となっています。障子の外に立つ雨戸は,戸袋を省略するために隅部で回転させて,北側の裏に納まるように工夫されています。また,屋根を軽くみせるために柿葺の軒先は薄い一重軒付となっています。
 林丘寺(りんきゅうじ,左京区修学院林ノ脇) 林丘寺は,臨済宗天龍寺派の寺院で,後水尾上皇の第八皇女朱宮(あけのみや)光子内親王(てるこないしんのう)の朱宮御所(音羽御所<おとわのごしょ>)が寺の前身です。朱宮は父後水尾院より修学院離宮内に別殿を賜って楽只軒と称しましたが,延宝8(1680)年,上皇の崩御によって朱宮は落飾,照山元瑤(しょうざんげんよう)と号し,御所を林丘寺と改め,尼門跡寺院とします。天和2(1682)年には本堂が建立され,その後,客殿が東福門院奥御対面所から移建されました。明治の初めには男僧住院となりましたが,明治17(1884)年,宮内省に寺地の約半分を返上,同19年,楽只軒と客殿を離宮内に残し,現在地に玄関・書院・庫裏等を移して,もとの尼門跡に復しました。現在,離宮内にある客殿は,華麗優美な意匠でまとめられ,床脇の五段の違棚(霞棚<かすみだな>)は桂離宮・醍醐三宝院の棚と共に天下の三棚と称されています。(フィールド・ミュージアム京都HPより)

私的満足度「★★★」:葉書で参観申し込む地です。約1時間案内していただきますが素晴らしいの一言です。季節の良いときにまた来たいです。(H21.1.19記)
すごいですね。こうした光景を観るためには8月1日に往復葉書で宮内庁に願い出なければなりません。サラリーマンにとって3か月先の平日に休暇をとる決意をすること、および予定どおり休めることは大変幸せなことだなと痛感致しました。(H21.11.26記)

修学院離宮(H21.11.26再訪)


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