所在地:京都市中京区河原町通り二条下ル東入ル一之船入町538番地ノ1
アクセス:JR京都駅~バス
様式・作庭:池泉回遊庭園、伊集院兼常
文化財:市指定名勝
作庭の時期は明らかでないが、伊集院時代の可能性が高い。とすれば、無隣庵に先立つ京都における近代造園の草分け的な庭園ということになる。その作庭者も伊集院自身である可能性が高い。
伊集院兼常(1836~1909)は旧薩摩藩士で、軍人として、のちには実業家として活躍した人物である。薩摩藩の普請を担当していた経緯から建築や造園の才能に恵まれていたらしく、明治32年に南禅寺の邸宅を訪ねた黒田天外(美術評論家)に「私ぐらい多くの建築のことをやったものはなかろうと思う」と述べている(黒田天外:『江湖快心録』明治34年)。また、植治(庭師、山県有朋にひきたてられた)も「伊集院さんほどの名人は滅多にいません。普請といひ、庭園といひ、先ず近世の遠州公(小堀遠州)どすな」と賞賛している(黒田天外:『続々江湖快心録』明治43年)。
明治42年に京都府庁が発行した『京華林泉帖』には、明治期に造られた二条木屋町周辺の庭園として、「田中氏河原町邸」「田中氏二条樋口邸」「林氏木屋町邸」が掲載されている。「田中氏河原町邸」は旧角倉了以邸で、明治39年に田中氏の所有に帰したのちに、植治が鉄管を用いて鴨川の水を引き、瀧と流れを造っている。高瀬川の取り入れ口に位置する「田中氏二条樋口邸」は旧角倉了以別邸で、山県有朋から三野村利助、川田小一郎、清水吉次郎を経て、明治39年に田中氏所有となった。
邸内を高瀬川が流れるプランは角倉了以ならではのことである。のち、大正7年に阿部市太郎へ所有権が移るが、同9年に植治が作庭を行っている。「林氏木屋町邸」は京都府の植村知事が所有していたものが、新宮涼亭を経て、明治27年に林誠一の手に帰した。この庭園にも鴨川の水が引き入れられていたと記されているが、高瀬川の西、御池通りの南という位置関係から推して、高瀬側からの導水の方が有利なように思う。
どうしたわけか、この『京華林泉帖』には廣誠院らしき庭園は載っていない。興味深いのは、『林氏木屋町邸』林泉の写真をみると、流れのような池に長い石橋を架け、岸に沿って沢飛びを打ち、かつ飛び石の一つに円筒形の加工石らしきものを用いるなど、その手法が廣誠院の庭園に酷似していることである。あるいは、この庭園も伊集院兼常の作であり、かつ、そのデザインが後の植治の作庭に影響を及ぼしたとする仮説も成り立つのではないか。(廣誠院HPより)
私的満足度「★★」:京都市役所の隣にこんなすごい所があるなんて流石は京都だと思いました。ここは敷地内写真撮影禁止ですが、庭側は監視員もいないので結構みんな撮影していました。
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