住所:京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町 アクセス:JR京都駅~バス 様式・作庭: 文化財: 宝筐院は、平安時代に白河天皇(1053~1129)の勅願寺として建てられました。勅願寺とは、勅願によって鎮護国家・玉体安穏のために建立された寺のことをいい、東大寺・大安寺・薬師寺などがこれに当たります。宝筐院は、建立当時から「宝筐院」と呼ばれていたわけではなく、元々の名は「善入寺」といいました。平安の末から鎌倉時代にかけては、数代にわたって皇族が入寺し、住持となりました。南北朝時代になり、貞和年間(1345~50)から夢窓国師の高弟である黙庵周諭禅師が入寺し、衰退していた寺を復興させ、中興開山となりました。そして、この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし、これ以後は臨済宗のお寺となりました。室町幕府の二代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)は、貞治四年(1365)に母の死去にあいました。その法要の席において、黙庵から経典の講義を聞き、更に参禅問答したことを契機に黙庵に帰依しました。そして、師のために善入寺の伽藍整備に力をいれました。 当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていました。寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わっていません。貞治五年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となりました。そして、八代将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院にちなみ、寺名は宝筐院と改められました。備中・周防などに寺領があり、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛でした。しかし、応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微してゆきました。寺領も横領されるなど、経済的に困窮していったからです。江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院となり、門の位置は今とは異なり、南に向けて設けられていました。幕末には廃寺となりましたが、五十数年を経て復興されました。(宝匡院HPより) 私的満足度「★★★」:清涼寺の西側にある宝筺院です。入り口が狭く分かりづらいですが、一歩中に入ると素晴らしい紅葉の景色が広がります。 |
もう少し 宝匡院庭園を |