住所:滋賀県東近江市山上町 アクセス:近江鉄道八日市駅〜バス 鎌倉時代から室町末期まで小倉氏が支配した山上は信長没後の天正11年、秀吉は最初の知行改めに北政所ねねの叔父、杉原家次(坂本城主)に山上庄2336石を宛行ったが家次は翌年他界、次に秀吉は五奉行の筆頭で高台院ねねの義従兄、浅野長政(大津城主)の知行地に加え八風越えに備えた。天正19年、秀吉は信長の遺児織田信高に庄内1060石を与えたが慶長4年、他に変えられた。 元和5年、山上は家康の天下制覇の最功労者、安藤重信(高崎城主5万6千石、後に老中職)の所領となり重長、重博(老中職)と継承され、元禄8年5月、備中松山に転封後は一時天領となった。元禄11年5月山上は譜代重信の稲垣長茂の孫、稲垣重定(1万3千石、若年寄)の筆頭所領となったが稲垣氏は幕閣の重鎮、江戸定府大名で参勤交代もなく藩政は大津蔵役敷で代行された。のち定淳(大阪定番職)の寛政6年12月、始めて山上陣屋(現在地の南側一帯)が構築された。明治2年版籍奉還で藩主稲垣太清は、家臣72世帯と共に山上に帰ったが藩士宅9軒、長屋11軒の完成まで村内の安養寺等に寓居し藩知事の職務を執行した。(現地案内板より) 私的満足度「★」:永源寺に行く途中、バスの窓から山上陣屋跡地の立て札を発見。遺稿は立て札のみでした。下の写真はそばにある永源寺入り口の紅葉。 |