所在地:三重県鳥羽市鳥羽
アクセス:近鉄鳥羽駅〜徒歩
文化財:
九鬼嘉隆は、織田信長の後押しで志摩の諸豪族を攻め立てると、鳥羽城主だった橘宗忠は、娘を人質として降伏しました。その娘を嘉隆は妻に娶りました。永禄3年(1560)、水軍を率いる嘉隆は、居城の田城が内陸にあり不便だったので、海辺の鳥羽城を手に入れようと望み、妻の父である橘宗忠の鳥羽城に夜襲をかけ奪い取ってしまいました。
嘉隆は鳥羽城を大幅に改修し浮城にして、九鬼水軍の拠点としました。
当時は、本丸、二の丸、三の丸を設け、水門4、城門6、櫓13があったと言います。また大手門は陸の方ではなく、海に向かって造られていました。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦のおり、嘉隆は西軍、子の守隆は東軍となり、安乗(あのり)崎の海上で海戦を繰り広げることになりますが、東軍が勝利をおさめたため、嘉隆は抵抗を断念、鳥羽湾に浮かぶ答志島に逃れ、洞泉庵で切腹して果てました。守隆が父の助命を家康に嘆願して許されたときには、すでに嘉隆は自刃した後でした。享年59歳でした。
守隆のあと良隆が襲封しましたが、病弱のため次弟久隆と三弟隆季が家督相続をめぐり騒動となり、結局幕府は、久隆を摂津三田3万6千石に封じ、隆季には丹波綾部2万石を与えました。この時水軍の雄、九鬼水軍は陸に上がった河童となってしまいました。
その後、鳥羽城主は内藤氏、土井氏、松平氏、板倉氏、松平氏と替わり、享保10年(1725)稲垣昭賢が3万石で入封して、その子孫が明治維新を迎えました。(現地案内板より)
私的満足度「★★」: けっこうな石垣が残っています。海も眺めることが出来ますが、観光地のど真ん中なので真珠だの伊勢海老だのの看板が目に付きます。
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