所在地:三重県津市美杉町下多気
アクセス:JR名松線伊勢奥津駅〜タクシー
文化財:国指定史跡
北畠氏本城。下多気(しもたげ)の標高約600mの山頂にあり、興国3年(1342年)に北畠顕能が築いたものです。それ以後北畠氏8代の本城として続きます。 三代満雅の時 阿坂城の白米で馬を洗い敵を欺いたというような逸話も残ります。この満雅が津市岩田川の合戦で討死、これより北畠氏の勢力は弱まりました。 8代具教が暗殺された際 織田勢が多気に大軍で攻め寄せました。この時城代北畠政成は城で討死し霧山城は廃城となりました。
康永元年・興国3年(1342年)北畠顕能によって築かれた。北畠氏は村上源氏で京の北畠に居住した公家であったが、建部3年・延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時に北畠親房が南伊勢に下向し、玉丸城を拠点として勢力をのばした。足利氏はこれに対して幾度となく玉丸城を攻撃し康永元年に落城、顕能は多気郡に逃れた。その後、南北朝の合体や後小松天皇譲位による南北決裂などもあったが、南朝方は次第に勢力を削がれ北畠氏も一守護大名となっていった。永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると、北畠具教は大河内城に籠城し抵抗したが、やがて信長の次男信雄を北畠の養子として家督を譲ることで和解した。具教は三瀬館に潜み信雄に対抗しようとしたが天正4年(1576年)信雄の命によって暗殺された。(現地案内板等より)
私的満足度「★」: 北畠神社が上り口になります。ハイキングコースのようです。杉林を登り詰めると最初に鐘突堂跡の曲輪が頂部にあり、この西南側には土塁と堀切が残っているそうです。
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