24三重県 伊雑宮



所在地:志摩市磯部町上之郷374

アクセス:近鉄上之郷駅より徒歩3分

文化財:

伊雑宮(いざわのみや)

伊雑宮は、天照大御神の御魂をお祀りし、「いぞうぐう」とも呼ばれます。古くから「遙宮とおのみや」として崇敬を集め、地元の人々によって海の幸、山の幸の豊饒ほうじょうが祈られてきました。

毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、とても雅な神事で、「磯部の御神田おみた」の名で国の重要無形民俗文化財に登録され、日本三大田植祭の一つとされます。(神宮HPより)

鎌倉時代成立とみられる『倭姫命世記』によると、伊勢神宮の内宮を建立した倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して伊雑宮を建立したとされる。神宮ではこの説を採るが、一般には『倭姫命世記』が史書とされないこと、また該当箇所は伊雑宮神官が後世に加筆したとされることから、創建は不詳とすべきである。また、近世以前の志摩国では、伊雑宮周辺の土地のみが水田による稲作に適したことから当社が成立したとする説や、志摩国土着の海洋信仰によるとする説などあるが、定説ではない。

804年(延暦23年)の『皇太神宮儀式帳』及び927年(延長5年)の『延喜太神宮式』に、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載があるため、それ以前から存在したとわかる。

平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、伊勢平氏の地盤だった伊勢国への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備した。養和元年(1181年)1月、伊雑宮は源氏の味方となった紀伊の熊野三山の攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われてしまう。熊野三山の勢力はさらに山を越えて伊勢国に攻め込むが、反撃を受け退却した。1159年の平治の乱では平家に味方した熊野三山が、治承・寿永の乱では源氏に味方した理由として、当時の熊野三山と対立した伊勢神宮を平家が優先したためとされるが、この事件により、神職が権力者の庇護を得るために歴史の捏造を行ったとする説がある。

江戸時代には伊雑宮の神職が中心となり伊雑宮を本来の内宮とする偽書を作成し、先代旧事本紀大成経事件の舞台となる。(ウィッキペディアより)

写真右下は御料田

私的満足度「★★」:神宮別宮ですので例によってやる気のないご朱印です。伊勢神宮による解説ではつまらないので、黒歴史の記載のあるウィッキペディアの方も掲載。


 



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