住所;長野県長野市松代町松代1493 アクセス;長野電鉄長野線松代駅〜徒歩 作庭:一つの「泉水路」により連続する一群の庭園 文化財:国登録記念物 山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、佐久間象山、鎌原桐山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で名は久道、のちに信龍と名のり、通称は源太夫といいました。 常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めました。8代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐していました。明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。 現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬)が残されています。ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。 表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。 屋敷北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑は、孫の塩野季彦らが、長野城山に建つ碑文の磨耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。庭園には神田川の水を引き入れている池(泉水)があり、そこから下流の屋敷へと通じる水路(泉水路)が残されています。(長野市HPより) 私的満足度「★」:平成20年5月に国の登録記念物として指定されたので再訪してみました。観ても「ああそうですか」といった感じです。 |