20長野県 中野陣屋

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住所;長野県中野市中央二丁目四番四号
アクセス:長野電鉄長野線信州中野駅〜徒歩

江戸時代の前期は、中野地方には中野、西条、新野、金井に天領(幕府領)の陣屋がおかれていました。
 これが享保九年(一七二四)までに中野陣屋に一本化され、中野陣屋は五万石余の天領を支配する、信州随一の陣屋となりました。代官は通常江戸におり、陣屋には元締、手付、手代、書役その他をふくめて二十人以下の人々が常駐し、行政にあたっていました。陣屋の敷地は、天保十一年(一八四〇)には、東西八十七メートル、南北六十五メートルでした。陣屋の普請などにあたっては、支配下村々からの負担が大きかったのです。
 中野陣屋は、王政復古の大号令のもとに慶応四年三月(一八六八)、尾州御取締中野御役所となりました。同年八月に伊那県が創設されると、伊那県中野分局となります。明治三年十月(一八七〇)中野県が分置され、中野陣屋も改造され中野県庁となりました。その管轄範囲は、東北信六郡にわたる旧天領の地域です。このとき中野村も正式に中野町に昇格しました。
 同年十二月十九日から二十日にかけて、中野騒動(世直し一揆)が発生し数千人の一揆勢が中野県庁、中野町やその周辺の特権的豪農商や、陣屋時代の郡中代、取締役の家などを襲撃、県庁役人と門番の二人が惨殺されました。中野町と松川村だけでも五百二十軒余、周辺村々でも百二十軒余が焼失しました。
 一揆勢の要求は、年貢の減免、新規賦課税の中止、特権商人の告発などです。逮捕者は六百人余で、うち六人斬首、二十二人が絞首、百人余が労役刑に処せられ、富む者、貧しい者いずれの側にも心の痛手を残しました。
 中野町では法運寺を仮庁舎とし、新庁舎建設地を高梨館跡にあてて設計を進めました。しかし、翌明治四年六月、政府は中野県庁役人からの要望により、中野県庁を辺すうな場所であるとして、長野県と改称し、県庁を善光寺町(長野村)に移すことに同意しました。
 中野町や郡下の役人層は、県庁存続の歎願をおこないましたが、それもむなしく七月二十五日、県庁は善光寺西町の西光寺を仮庁舎として移転しました。(中野市HPより)

私的満足度「★★」:中野県庁として利用された陣屋が復元されている他、井戸とかも残っています。


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